|
|
|
ここんとこずっといい陽気続きですが、今日は暑かったですね。ちょっと前まで、震えるほど寒かったのに。春の穏やかな感じをろくに味わえもせずに初夏に突入という感じで、なんか少し面白くないですが、それでも気温の上昇とともに、だんだん気持ちも軽くなってきます。もー、いっそどこぞへ飛んで行きそうなくらい。
久しぶりに外に出ると、町を歩く人の服装もグッと薄着になりました。脱いだ背広を鬱陶しげに脇に抱えるサラリーマンとか、レスリング選手の試合着みたいな大きく背中に食い込んだタンクトップでママチャリを転がすアンちゃんとか。 なかでも、炎天下の交差点で信号待ちをする女の子が印象的でした。というか、今年最初のナマ肩眼福。とても素晴らしい、つやつや。 そして、手提げかばんからのぞくのは、きっとおかーさんへのプレゼント。 ぼくは、自分のおかーさんには何もあげられなかったので、せめて絵でも描いておこうと。いや何が「せめて」なのかわからないけど、われながら。 |
|
昨日は月に数回の遠出でした。目的は、ここに書くようなことでもないけど、打ち合わせというか下見というか。今年半ば以降に関わるあれこれ。その予定がなるべく前倒しできるように、頑張らなくては。
それで長時間電車に乗っていると、ついついツイッターへのつぶやきが増えます。あ、そういえばこのブログではアナウンスしてなかったけども、ツイッター始めました。去年あたりから興味は持ってたんですが、今年に入って津田さんの本を読んで、我慢できずに始めてしまいました。そしたらこれがなかなか面白い。さきのエントリー「非実在青少年」問題もツイッター経由でその問題意識が急拡大していくさまを目の当たりにして、やっぱりこれはすごいと思いました。 @kiR_Rinでつぶやいてます。よかったらフォローしてやってください。 何の話だっけ。そう、電車に乗って。今日は電車に乗ってて気になることがいくつかありました。 まずは東海道線で東京に向かう途中。 今日はとても風が強く、そのせいで電車の運行状況もちょっと不安定でした。品川駅に停車して、そろそろ発車するかなってときに、おかしな車内放送が流れてきました。 「お客さまにお知らせします」 それっきりしばらく無音。はた、何のお知らせ? と気になり始めたころに 「ただいま、当駅で交代する乗務員の手配がとれておりません。申し訳ありませんがそのまましばらくお待ちください」 え? それっていったいどういう状況?? っていうか何なのその理由??? 「代替車線のご案内をいたします。横須賀線、京浜東北線、山手線……」 ええええええええ? 電車動かないの? そんな重大な事態? いったい、現場で何が起こってるんだ!? 周りの乗客も動揺し始めます。席を立って辺りを見回したり、ホームに出ようとしたりっていう人が出だします。ぼくはまだ席に座っていました。これはツイートのチャンスか! とあわてて携帯を取り出したころに 「お待たせいたしました、まもなく発車いたします」 と、結局は何事もなかったように電車は出ました。停車していた時間はものの数分です。とりあえずホッとしつつ、つぶやき損ねた、とちょっとガッカリするツイッタ厨ここにあり。 まぁ、実際は些細な業務連絡ミスだったろうと思うんですが。車内放送をした車掌さん、相当焦ってたんでしょうね。それっぽくぼかせばいいものを、つい本当のことをいっちゃうし。勝手な一存で乗り換え案内とか始めちゃうし(笑)。たぶん交代する乗務員ともども、後で相当こっぴどく怒られましたよきっと。 もうひとつは、もっといやなこと。 帰りは東海道新幹線で帰ってきました。 小田原駅に着いて、改札前で定期入れから乗車券と特急券を取り出して自動改札に通しました。そこから乗り継ぐ在来線の改札に向かう途中で、定期入れに入っているはずのSuicaがないことに気付きました。 新幹線のチケット2枚は、そのSuicaと同じスリットにしまってあったのです。まさか、一緒に自動改札の中に入れてしまったのか? 慌てて引き返し、新幹線の改札近くに足っている若い駅員さんに事情を説明。 しかし、その駅員さんは 「は? ありえませんよそんなこと」 といって取り合ってくれません。その冷淡な態度にまず愕然。「間違ってSuicaが挿入されると、警告などが出てすぐに分かるものなんですか?」と聞くと 「まぁ、そうです」 しかし、そもそもSuicaを定期入れから取り出すことなんて無いのだし、新幹線のチケットを取り出したときしかありえない。改札機に入れたんでなくても、そのさいに滑り落ちたのかもしれない。その日別の駅でチャージもしましたが、そのときは確かに定期入れに仕舞ったことはハッキリと覚えています。それよりなにより「Suicaを失くした」って明らかに困っているのに、もう少し親身な対応とってくれてもいいじゃないか。って、そんなに無茶な要求ですか? 「どう考えても、この駅で失くしたのは間違いないんです。どこかに落ちているか、万が一改札機の中から見つかったら連絡してください」というと 「はい、忘れ物に届けておきます」 と、へらへら笑いながらいうじゃないの。体をこちらに向けもせずに。つか忘れ物じゃねーだろが! どこをどう聞いたらそういう返事になるんだよおい!! キレそうになりながらも「お願いします」と念押ししてそこを離脱しました。 こみ上げるムカムカを抑えながら、たぶん出てこないかもしれない、そしたら新しいSuica買わなきゃな……。とか考えていました。失くしたSuicaには3000円くらいのチャージが入っています。みどりの窓口に連絡すればそのまま新しいカードに引き継いでもらえるんでしたっけ。いやもう、そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、あの駅員がムカついてしょうがない! 忘れよう忘れようと努めたものの、ここで書いてさらに怒りが再燃しました。でも、ちょっとスッキリもした、かも。 今日のことから、JRの人材の質が落ちたとかいうつもりはないですが、たまたま印象的な職員2人に出会った日でした。 |
|
ご無沙汰です。またもやしばらく空けてしまいました。 ここ最近、怠けているつもりはないんですが、成果はいまひとつ……。もっとカシコク効率的に頑張るべきだな、と。 ご存知のかたも多いでしょうが、東京都の青少年健全育成条例改正案が話題になっています。いわゆる「非実在青少年」規制問題です。なにそれ知らないーってかたは「非実在青少年」でググっていただくか、あるいはこことかこことかここあたりを読んでいただければ。 18歳未満の児童を性の対象とすることを禁じた児童ポルノ禁止法という国の法律(正式名称はもっと長いですが)がありますが、表現の場においてこの法律が禁止しているのは写真や映像といった実在の人間を記録したものに限られます。マンガやアニメやゲームや小説といった創作物はいまのところ規制の対象ではありません。この「いまのところ」というのが要注意で、創作物も規制したがっている政治家や活動団体はいまだ強固に存在していて、それと表現活動を守ろうとする側との絶え間ないせめぎ合いが現在に至るまで続いています。2008年にも「準児童ポルノ」という言葉で創作物も規制しようというキャンペーンがありました。 この度の東京都議会に提出された改正案は、基本的にこの児童ポルノ規制強化の流れです。マンガやアニメも規制対象に入れつつ、なおかつ単純所持の違法化(とりあえず罰則規定はないが)に踏み切るというかなりつっこんだものです。国の法律としての児童ポルノ法がなかなか越えられない壁を、この国の首都の条例という形で成立させることで既成事実化し、それをそのまま法律制定へと繋げてしまおうという目論みではないか、と指摘するひともいます。 問題点はそれこそ数え上げればキリがないのですが、ひとつには本来児童ポルノ法はそれを作り出す過程やそれが流通することで発生する実在の児童への虐待を防止するためのものであり、「青少年の健全な育成環境を整える」という目的とは完全に乖離します。それ以前に「健全な」などというモラルの話に権力が口を出していいのか、という問題も当然指摘し得るでしょう。 いまの話で何度か「児童」という言葉を用いましたが、この改正案ではもっぱらその言葉は使われません。そこで登場してくるのが「非実在青少年」という新語です。この奇妙な言葉の定義は、東京都によると「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの」で、この改正案では「非実在背少年を相手方とする又は非実在青少年による性交類似行為に係る非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」を条例違反に定めています。細かい言い回しの違いはありますが、つまりは前述の「準児童ポルノ」と同じものだと考えていいでしょう。ではなぜ、すでにある「準児童ポルノ」という言葉を使わずにわざわざ「非実在青少年」などという造語を捻り出してきたのか。それはつまりこれを「青少年健全育成条例」の改正案に載せるため、だとしか考えられません。 先に指摘した通り、「青少年健全育成」と「児童ポルノ犯罪」は本来別の議論です。この条例の改正案の中で法目的のそぐわない「児童ポルノ」の話をすることには当の都議らもさすがに無理さを感じたのでしょう。だから別の言葉にすり替えて、あたかもこれを制限することが青少年のためである、というふうに議論をねじ曲げた。これを欺瞞といわずしてなんといいましょうや。 しかしやしかし、この「非実在青少年」が思わぬ効果を生みます。 そのトンデモな言葉の臭いに即座に多くの人が反応し、この条例改正案の問題が広く共有されていきました。今まで一般人はおろかマスコミや出版関係者の間にも知られていなかったことがわずか数日の間にみるみる広まり、ネットニュースの報道、各種関係者・団体からの異議申し立て、京都精華大学からの公式の反対声明などに発展しています。本日12日は有識者による緊急記者会見も開かれました※。この問題が人口に膾炙することに何より貢献したのが、当の東京都が創作した「非実在青少年」なる珍妙な造語であったことは長く記憶されるでしょう(笑)。 と、何やら既に問題は解消したかのような書き方になってしまいましたが、まだまだ安心は出来ません。正念場です。ネット周りがどれだけ盛り上がっても、実際の都議の人たちを説得できない限りはどうにもなりません。このブログで知って自分でも何かしたいと思われた方は竹熊さんのブログに再掲されている藤本由香里さんの日記を参考にしてください。ちなみに藤本さんはこの問題の早期から広報につとめられ、本日の記者会見※にも出席されています。謹んで敬意を表します。 引き続き注意深く動向を見ていきましょう。 ※:記者会見、12日じゃなくて15日でした。なんでそう間違ったのか自分でもよく分からないんですが(汗)、謝罪して訂正します。 と、ここまでは実は話の前段です(^^; 更新頻度が少ないくせに長くてすみません……。以下はこの件に関する僕の個人的な問題意識をいくつか書きたいと思います。 まずは規制に反対する意見として典型的なものを2つ。 「『ベルセルク』や『舞姫 テレプシコーラ』のような権威ある賞を受賞した作品でも物語上の必然として児童への性虐待を行うシーンが出てくる。そのような表現を規制するとこれらの作品すら社会から消えてしまう」という意見。 これは全く正しいことなんですが、でもこれらの作品といわゆる成年マーク付きのロリコンエロマンガは、やはり誰がどう見ても違う。前者を正当化する理由を後者にも適用しようというのは無理があると思います。上記の説得は一般の人たちに向けたものとしてあえて対象を限定したものと思いますが、この理屈からは「だったら低俗なエロマンガは規制していいだろう」という反論も導いてしまう。芸術だから、内容が高尚だからその表現が正当化されるわけではないということもやはり強調しておきたい。 「エログロまで正当化するのは表現の自由の濫用だ」というひともいます。しかし勘違いしてはいけないのは、ぼくらはある表現、もっといえば思想信条を「許されているから」おこなうわけではありません。<自由>という言葉が国民を規定する法律ではなく、国家の原理原則を定める憲法に銘じられていることの意味を忘れてはいけない。それは、「いかなる表現・思想信条、さらにはその人の尊厳や生きる権利はこれを縛ってはならない、否、縛ることなどできはしない」という国家および国民自身による宣言に他ならない、ということです。「公共の福祉に反しない限り」という但し書きは、その言動や表現が他社に重大な影響を与える場合には、というもの。具体的な社会上のコンフリクトに即してその都度議論しなければいけない微妙な問題が存在することは確かですが、特定の表現・思想信条をその性格ゆえに制限してよい、ということには決してなりません。 そしてもうひとつ「ポルノは現実の性犯罪に及んでしまう人間にとっての代替行為となる。性犯罪の抑止効果がある」という意見。 これはロリコンマンガ・アニメのファンはすなわち性犯罪者予備軍であるということを安易に認めてしまうようで、個人的にこの説を支持するのは非常に抵抗を感じます。少なくとも研究上は「ポルノが犯罪を抑止する」という説は「ポルノが犯罪を助長する」のと同程度にはまだ実証されていない、というべきではないかなと思います。一方でポルノの規制が日本より厳しいアメリカやカナダにおいて、日本より性犯罪の数が多いというデータをもってこれを肯定する意見もあります。しかし性被害はその性質上とくに統計の取り方が難しく、その国独自の文化により左右される部分も多いのではないかと思います。そう簡単に比較できるものなのかどうか。 しかし、もし欧米が日本より性犯罪の発生率が有意に高く、かつポルノによる抑止力もこれを認められないと仮定するなら……。乱暴を承知で、ちょっと思いついた考えを述べたいと思います。 それは、「人権意識の有無」ということです。日本が欧米より人権意識がある、ということではありません。多くの人がいうように欧米の人権意識は日本のそれよりはるかに進んでいるとぼくも思います。しかしそれゆえに、逆説ですが「人権意識」というものがあるために性犯罪という「人権侵害」が起こっている、ということは考えられないでしょうか。 どういうことか。憲法の話でも述べたように、近代社会においては人間の思想信条は原則自由ということが保証されています。それが「人権」というものですよね。そしてこの人権が他者の人権とバッティングする場合には、どちらの自由が尊重されるべきかという議論になる。その議論を、自身の有利なように強引に解釈してしまうひと、そういうマインドの犯罪者が、ある割合でいるんじゃないかと思うのです。あるいは「相手の少女にも性の快楽を享受する権利・自分の愛を受け取る権利がある」という捏造も、そこには発生してしまうかもしれない。その場合の問題とは、議論の勝利が行為者個人の価値観でのみ通用する独りよがりなものである、ということです。仮に万人を納得させることができれば、それは犯罪とは呼ばれない、という仮想もできます。という考えじたいが危険なものである……(以降無限ループ)。 人間主体という前提に立てば、すべての物事の善悪を決めるのはそこにいる人間だということになる。「どんな場合でもしてはならないこと」という命題は、それを打ち立てる大地を失う。ラスコーリニコフや夜神月の思考が陥った悪魔に囚われてしまう。人権を絶対的に肯定するっていうのは、そういう危うさも感じてしまうんですよね……。 自分でも無茶な議論だなーとは思います。異論があれば、どうぞお願いします。 と、まぁいささか脱線しました(^^; そしてなにより根本的な問題ですが、 キャラ表現が卓越した日本のエロマンガは、はたして「ポルノ」なのか? という疑問がどうしてもあるのです。 またもや個人的な感覚を脱しない話で恐縮ですが、「ポルノ」とは「“人間”の性行為を描写したもの」であり、それは現実の(例の言葉にあやかって実在のというべきか)の性欲です。もちろんグラビアやAVにはユーザーを喜ばせるための演出があり、ファンタジーがあり、実際のセックスとは違う。しかしここでいうところの実在性=リアリティとはそのような末端の描写のことではなく、実際に「それ」が起こったという事実、「それ」を自分も実行すればこのような快楽を得られるという推定、快楽のために自分は「それ」を実行する必要があるという結論。そういうリアリティです。 それは実写だけでなく絵による描写でも同じことです。目的として人間を指向しているか否か。その点において外国のコミックや日本のかつての劇画と、現在の日本のマンガとの間には(エロであるかどうかに関わらず)大きな差異があると考えています。 人間を描いたポルノであるなら「実際の性犯罪を助長すること」も「実際の性犯罪を抑止すること」もひょっとしたらあるかもしれない、とも思うのです。それは、事実→推定→結論というリアリティの枠組みがそれを有効化するのではないか、と考えるから。 一方で人間から遠くはなれたキャラ表現は、ひょっとしたら「犯罪の助長」なんかよりももっと恐ろしいことを、ぼくたちに及ぼすかもしれない、という予感みたいなものがあるのです。 ぼくたち人間は他人とコミュニケーションをとる際、内面で起こったものを言葉や仕草など相手に伝えられる表現に変換して渡します。その表現を受け取った側も、表現を相手の内面へと予測的に変換し理解する、という順序を踏まえます。 図で表せば、こんな感じ。 (内面)→(表現)| →→→ |(表現)→(内面) まるでオーディオや無線のD/A・A/D変換のようですね。そういう意味では肉体はインタフェイスといえる。 このインタフェイスは素晴らしい表現力を持つがその反面扱うのが難しい。また、個人によってその性能や美醜も異なる。たまたま出会った相手が自分の求める内面を有している保証もない。みのりあるコミュニケーションを得るためにはそれなりの地道な訓練や面倒な手続きが必要になります。 虚構はそういったコミュニケーションに関わるコストを削減してくれるのです。それはメディアという、肉体の代替となるインタフェイスを用いるため。内面から表現へと変換する効率もよく、その表現を相手に渡すこともたやすくできる。喜びや悲しみ、快楽や倒錯といった内面のダイレクトな情報を、そのままに伝えることが出来ます。 音楽で喩えてみましょう。 音楽家は元来楽器を演奏し、あるいは自分の喉を鳴らして内面を音楽情報に変換し、それを聴き手が聴覚で受け取って聞き手自身の感性によって内面へと変換していました。しかし、楽器の演奏や歌は習熟するのがきわめて困難です。音楽家は自らその手間をかけるか、自分のイマジネーションを表現してくれる演奏家を集めるしかありません。それを人に届ける場も限られている。音楽は非常にコストのかかる行為です。 しかし現在そのコストは大幅に下がっている。それをもたらしたのがDTMであり、初音ミクであり、ニコニコ動画です。楽器の習熟や演奏家の調達、聴衆の確保という問題は鮮やかに解消されました。 コンサバな音楽ファンのなかにはやっぱり「人間が演奏したものしか音楽として認めない」という考えを持っている人もいるでしょう。今の世では頑迷と片付けられても仕方ないという気もするものの、そういう気持ちは理解できる、というかぼくの中にもそれはあるかもしれません。 実際に人間が演奏する楽器はその習熟が困難である分とても高い表現力を持ちます。そのポテンシャルをもってしか奏でられない音楽というのは、たしかにある。ようはその価値とコストのバランスの問題です。 目的を同じくするふたつの手法があり、両者の性能が近しい、あるいは一方がもう一方に準じる場合、人々の選択が圧倒的にコストの少ない方に流れることは、もはや必然でしょう。 キャラ表現はコストの小ささもさることながら、インタフェイスとしての機能が肉体のそれより大きく飛躍していると感じます。その飛躍は、人間という制約を捨てたことによるものです。DTMも人間の指では不可能な超絶技巧や息継ぎのない歌声など、人間という制約を捨てたことにより可能になった表現がありますが、それがすなわち音楽の価値を高めているかどうかは分かりません。いや、ぼくがそれを理解できないだけで、その表現のすべてを享受できる人たちは既に旧来の音楽を超越する価値をそこに見いだしているのかも。倒錯的なエロ漫画の価値を万人が享受できるわけではないように(なんて同じ扱いにするのはDTMファンを怒らせますかねやっぱし(汗))。ともあれ、虚構の享受可能性とはリテラシーである、という点には概ね同意していただけるのではないでしょうか。 この「人間を超越した」というのが虚構の最大の魅力であり、また怖いところです。人間の肉体を通して表現し、それを相手の肉体へと伝えるという実在性関係が存在しないぶん、どのような倒錯でも可能になる。 例えば、今までも何度かしてきた話ですが、ぼくはエロマンガを読む際に男ではなく犯される女の子の方に感情移入して、その快楽を追体験して興奮することがままあります。しかしこの快楽を、実際の少女とセックすることで得られるとは思っていません。セックスすることで身も心もその女の子自身になれる思えるのは、それはまた一段ぶっ飛んだ(あるいは、もはや宗教的な)飛躍が必要になると思われます。 スカトロやレイプ、美少年とのセックスなど、実在の人間相手ではとても無理なことでも、虚構の中ではその抽象的な快楽だけを取り出して、それを純粋なままに貪ることが出来る。 江戸時代の春画で、女が巨大なタコに絡み付かれて悶絶している絵があります。今でいえば淫獣触手プレイですね。おそらく当時これを見て喜んでいた人も、実在の性欲としてそういう倒錯を持っていたかというと、違うんじゃないかと思います。とすれば、もうそんな頃から日本人は虚構の快楽というものを楽しんでいた、と考えてもよさそうです。他にも鳥獣人物戯画図やバリエーションゆたかな妖怪譚などにキャラ表現の萌芽(というかその頃から立派な大木だったかも)を、ぼくなんかは見ます。 怖いと感じるのは、虚構によってもたらされる享楽があまりに素晴らしいがために、肉体という不自由なインタフェイスへの興味を失ってしまうこと、実在の人間を欲望できなくなってしまうんじゃないか、という可能性です。長い目で見ればそれは「犯罪の助長」などよりもっと、社会的に深刻な問題に繋がっていくかもしれない。 こういうこといいだすと「またオタク批判かよ」とか「どうせ、ナンパしろとか風俗行けとかっていうんだろ」って思うひともいるかもですが、ことはそんなに簡単な問題じゃないと感じます。 「それのどこが問題なの?」という意見には……でも、それだけで本当に寂しくない? という疑問の言葉をひねり出すのが精一杯です。実際のところ、唯一それがぼくを人間につなぎ止めているような気さえ、するもので。 斉藤環さんなどが指摘するように、虚構のエロに親しむ人は多くの場合それと並行して実在の異性とノーマルな性関係を結んでいるといわれています。それは性関係に何を求めているかが違うから、と説明されます。それはそれで多彩な経験が出来て、たいそう素晴らしいものだとは思うものの、そんな並行状態の性意識を持ったまま、パートナーにもそれを理解してもらいながら関係を深めていく、なんてはたして誰もが可能なことなのか……と正直思います。コストをかけてでも維持するべきものがある、と思えるにはそれなりの自覚と努力が要るからね。 まぁ、少なくとも音楽に関しては、テクノや初音ミクとジャズやオーケストラをどちらもそれぞれ楽しんでいるひとは、多いでしょうけども……。 |
|
というわけで今日は拙文です。って変換一発目がこれかよ! なんて変換ミスだ! クソっ当たってるじゃないか! どーせ今日はじゃなくて今日もだよ! ムカつくIMEだな! 気を取り直して、はい、今日は節分です。 みなさん豆まきしましたか? 恵方巻き食べました? どちらも僕はまだやってません。やるっていっても、豆まきねぇ……コーヒー豆でもまいときましょうか。 今日で(ん、昨日で? どっちだ?)冬も終わり、いよいよ春ですね。まだまだ寒い日も続きますが、だんだん日も長くなってきたし気分的にも春はすぐそこ、というかウカウカしてたらあっという間に桜も散ってしまうことでしょう。気をつけろ>自分。とくに2月は短い。気のせいではないぞ。 上の絵(念のため分からない人に説明しておくと、めちゃめちゃ長い巻き寿司を食べながら今年の恵方(西南西)に向かって走ってるのですよ。描いた絵について説明するとか、切なすぎるから)を描きながら、なんかゲームの画面みたいだなと思いました。横スクロールのアクションゲーム、つまりは「マリオタイプ」ですね。待てよ、それなら走る方向を右向きにすべきなんじゃないか? うむむ……としばらく迷いましたが、結局こうしました。僕にとっては、走る方向は左向きの方がシックリくるのです。 ではなぜこのように左向きにがシックリくるのかといえば、そりゃあとりもなおさず漫画の作法に無意識に支配されているからだと思われます。ご存知の通り、日本の漫画は右から左に読み進めていくもので、それはページ全体のみならずコマ内の視点移動の方向をも規定するものです。左を向いているキャラは主人公であり時空間的に前進する存在、逆に右向きのキャラは主人公に相対する存在。漫画の基本のリテラシーがある人は自然とそう読みます。 どうして日本の漫画がその方向になったのかというと、それはやっぱり日本の文章がそういう方向だったから、ということでしょう。漫画のコマの中に横書きのセリフや描き文字を入れようとすると、やっぱりどことなく違和感を感じるものです。 一方でマリオなどのゲームが右向きに進むようになったのは、外国のテキストの影響か? というと、たぶんそうではないと思います。ただ単純に、左手側に方向キーがあるコントローラにおいては右方向キーのほうが押しやすかったということじゃないでしょうか。 それならばなぜ方向キーが左手側に配置されたのか? そこまでいくとお手上げ、もう分かりません。コンピュータのキーボードにおいては、十字カーソルキーは右手側ですしねぇ。 右手側に十字キー、左手側にABボタンというコントローラを作って毎日交換して遊べば、それこそ本当に「脳にいいゲーム」ができるかもしれません。 昔サターンで出た『パンツァードラグーン』というゲームが大好きで、かなりやり込みました。このゲームは空飛ぶ竜に乗って敵を撃ち落すシューティングゲームで、フライトシミュレータを意識したのかデフォルトのキー設定では十字キーの上が下降で下が上昇でした。僕はそこから入ったのでまったく違和感なく操作できましたが、友達にやらせたら「混乱するー」とキー設定を変更してしまいました。 『パンツァードラグーン』やフライトシミュレータにおいて上:下降/下:上昇なのは、それはつまり上下ではなく前後なわけですね。ドラゴンの頭(機首方向)を押し込めば下降し、尻尾(尾翼方向)を下げれば上昇するというわけです。たしか、6以降のFFの飛空艇もそうでしたね。あぁ、書いてたらまたやりたくなってきたー。 クラシカルなドライブゲームで、上空から見下ろす画面で車を操作し、その車の向きに関わらず右キーが右転回/左キーが左転回という操作法のゲームがありました。いやぁ、これをやったときは混乱しましたね〜。マトモに走らせることもできませんでした。 気がつけば、節分とはまったく関係ない話になってしまいました。 皆さんも風邪などひかれぬよう、用心して春をお待ちくださいませ。 |
|
昨日2月1日は、今年の初午でした。
初午とは文字通り2月最初の午の日のことです。どうして2月からカウントするのかは知りませんが、たぶん旧暦の関係かな……と思ってたらそうじゃなかったみたい。旧暦の頃から「2月最初の午の日」と決まってたということで、つまり今より1ヶ月ほど後、本来は春先の暦だったようです。→ウィキ ※ で、この日に稲荷神社にお参りする習わしがあるということを数年前に知りまして、依頼都合がつく年はお参りするようにしています。初詣に行き損ねた年なんかはその代わりにしたり。 ※:読み返して「旧暦の関係じゃないか、おかしな文章だな」と思われた方もいるかもしれない、と思いました。たしかに旧暦の関係ではあるけど事情としては予想と反対向きだったということです。つまり、もともと旧暦正月頃に行われていたものが、現在の暦での上で2月になった、と考えていたのです。文章って難しいですね……。閑話休題。 神奈川は秦野に白笹稲荷という神社があって、ここは茨城の笠間稲荷、東京の装束稲荷と並んで関東の三大稲荷のひとつに数えられています。実際は小さな神社なのですが、毎年初午の日には地元の人たちが集まって縁日が出ています。今年もそっちに行きたいなと思っていたのですが、ちょっと時間がなかったのとあいにくの天気だったのとあって、小田原に買い物に出たついでに近くの稲荷神社に行きました。 縁日どころか参拝客も1人もいない淋しい境内でしたが、なかなかに立派なお社でした。狐さまもいっぱいいましたし。 周囲は住宅街ですが、こんもりとした小さい丘の上にあって、この神社の他にも周囲にはお寺がいくつか寄り添ってありました。何となく昔の地理を思わせるいい感じの場所。雨で寒かったので、また今度天気のいい日に来てゆっくり見て廻りたいですね。 やっぱり稲荷神社は独特の雰囲気があって好きです。いつか、京都の伏見稲荷にも行ってみたいです。千本鳥居でトリップしたい。 白笹稲荷の初午祭では油揚げの奉納をやっていて、初めて見たときは神社の前に大量の油揚げがぶら下がっているのを見て楽しかったのですが、ここではそんなこともやっていなかったので、その後のお昼ごはんで食べたうどんにいなり寿司を添えて奉納の代わりとしました。美味しかった〜(^^ 初午祭はその年の五穀豊穣・商売繁盛を祈願するお祭りです。今年一年、実りある年になりますように。 キツネさま。 久しぶりに描いたけど、やっぱりケモノミミの萌え要素的威力はハンパない、と改めて思いました。 最後に、今年の正月に知り合い筋に出した年賀状です。 今年の干支は寅、ということで、トラの威を借るキツネパワーで調子よくいきまっしょい。 |


















