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(前回の続き)
「著作権」って、何でしょうか? 厳密に法的な話はしたくてもできないので、抽象的というか、僕個人の観念的な話になってしまうのですが、自分の表現活動、または僕の尊敬するアーティストのそれにおける場合に照らし合わせて、表現者にとって保護されるべきだと思う権利。すなわちそれは、「作られた作品が、間違いなくその人によって作られたということを証明すること」これに尽きると思うのです。もちろん、これには、第三者によって無断で改竄されないことだとか、引用などの際に出自を明確にすることだとかの保証も含みます。しかし、その作品を利用してどのような活動を行うか、たとえば金銭のやり取りをするだとかの権利は、これに何らの関係もないものだと思うのです。前者を純粋な表現者の権利とするなら、後者はビジネスマンの権利ということができるでしょうか。 もちろん、現代において純粋な表現者というものがありえるのか、という話にもなります。どんなアーティストだって、作品を発表して、その作品に対価を払ってもらって初めて生活が出来る。生活の問題を抜きにしても、表現活動のためにもやはりそれ相応のお金が必要で、そのためにも商売をしないわけにはいかないでしょう。別に生業を持って、趣味の範囲として表現活動を行う場合には、見返りを考えずにやることも出来ます。それこそが真の表現活動だと思ったこともかつてはあったのですが、その活動に自分の時間も体力もすべてを費やして、文字通り人生の仕事としようとしたときには、それもやはり無理だと言わざるを得ない。 ここで反論もあります。作品が多く売れれば、それは作品が支持されている証でもあるから、アーティストにとって励みになる。(支持が低ければ叱咤になる)それに、優れた作品は多く求められ、そうでない作品は消えてゆく。より優れた作品を残してゆく淘汰にもなる。表現活動と商売が結びつくことは、何も悲観するようなことじゃないんじゃないか。 しかし僕が思うのは、それは表現じゃない、ということです。 表現の動機というものは、何も決め付けるべきじゃないので、よりたくさんの人に受け入れられたいというエンタテインメント志向も決して否定はすまい、とも思うのですが……正直なところ、やはり僕はあんまり好きな態度じゃありません。エンタテインメントとは、フタを開けてみたら多くの人に支持された、という結果論であって(予定調和もありますが)、最初からそれを狙って何になるといいたい。どんなアーティストにも、顔も知らない不特定多数の人にとっての「自分の作品」を定義することは不可能だし、それができると言ってしまうのはアーティストの傲慢だろうと考えます。ファンの方を向いていること、あるいは、作品の方を向いていること。アーティストにとって真摯な態度とは、はたしてどちらか。この考えは、人によって大きく違うことと思います。 そしてまた、芸術作品が淘汰されることが、いったいどうして必要なのでしょう。もともと無益、または無用なものなのに。仮に多くの人に求められるものを「優れた作品」、そうでないものを「劣った作品」と呼ぶことができたとしても、それは本当の意味でその作品の価値を決めるものじゃない。作品の価値とは、その作品に触れる個人個人の中での限定的なものです。たとえばそれは、作品を作ったアーティスト自身にとってのものだったり、作品を受け取ったファン一人一人にとってのものだったり。 たくさん売れる、まったく売れないといった話は、ただのマーケットの動向。そういう資本主義(言葉にするとありきたりですね)、ビジネスマンの立場にはできるだけ距離をとっていたい。それよりかは、生前たった一枚の絵しか売れなかったゴッホの心情に与していたい、とも思うのです。 そもそも、僕たちがある作品を求めるとき、その作品とお金を交換するわけですが、そこで支払われるお金は、作品というモノ(音楽ならプラスチックのディスクあるいは音声信号、本なら紙の束に印刷されたインクあるいはアスキーデータ)に対してではなくて(一部は原材料費等ですが)その作品を生み出したアーティストの発想や思考に対して払われているのです。これは多くの人に異論のないところだと思うのですが、そうであるはずなのに、いつの間にやらそれを忘れて、モノとお金の交換に終始してしまうのはなぜか。それが物質社会や資本主義の宿命だという人もいるかもしれません。ですが他に……たとえば、原因の一端が「著作権の保護」というキャッチコピィにあると考えることは可能でしょうか? 先ほど「著作権」というものの中には「表現者の権利」と「ビジネスマンの権利」という2つの側面があるんじゃないか、という話をしました。ここで辞書の語釈を調べてみますと、(goo辞書) 著作者が自己の著作物(中略)に関し,独占的に支配し利益をうける排他的な権利。とあります。改めて言葉として説明と受けると、なぁんだといった感じですね。「アーティストにとって作品作りとは……」なんて抽象的・観念的な話をしてきましたが、実際はなんてことはない。著作権とは、独占的に支配し利益をうける排他的な権利、つまりは紛れもなく「ビジネスマンの権利」そのものだったわけです。「表現者の権利」的側面など、最初からありはしなかった。まぁ、考えてみれば、実際に法律に明記されている権利なのですから、現実的な利益の得失に関わるものに過ぎないのは当たり前なわけで。(知的財産という言葉と同等ですね) 著作権の名の下に作品をパッケージングして流通させる。表現活動を“商材”へと変貌させる。そのことが、多くの人の作品に対する態度を、モノとお金の交換という単純な図式に押し固めてしまっているように思えます。 すると、どうなるか。作品の価値というものが、それを生むアーティストの発想や思考から、単なるモノそのものに移っていく。ファンは、お気に入りの作品の類似品でも代替可能になる。アーティストはパクリや二次創作に恐々としはじめる。それがまっとうなオマージュやリスペクトの結果であっても、認めることはできない。なぜって、自分の作品をより多く流通させるためには邪魔になるから。そしてアーティストはますます排他的になり、ビジネスマン化していく。そして著作権はその支配力を増大させていく。今ある歪みは、そういう流れの結果ではないでしょうか。 このことに、自ら危機感を抱いているアーティストも少なくない。そんな印象もあります。たとえば大手レーベルのCCCD政策に反対を表明したアーティストの中には、こういう考えの人もいたかもしれません。(もちろん、ただ「CCCDは商売として明らかにマズイ」というクレームだったかもしれませんが)佐野元春も「若いアーティストに、もっと著作権について考えて欲しい」というたぐいの発言をしています。また、どこかで立ち読みした本(たしか、この本だったかと……)に書かれていたことであまり詳しくは覚えていないのですが、アメリカでは自ら著作権フリーとした作品を発表するアーティストのコミュニティがあるそうです。こんなところからも、この問題を打破してくれるような、心強い意思の交流を感じます。 僕が思うのは、これまた観念的、というより理想的ですが、著作権のビジネスマンの権利と切り離して、表現者の権利というものをいま一度確立すること。これには、法律の制定などではなく、それぞれの人の意識を変えていくことが大切だと思います。具体的に何をどうすればいいか……ということは、まだ全然見当もつかないのですが、アーティストが変わらなければならないとき、ファンもまた変わる必要があるだろうことは、ハッキリと思います。 表現の動機というものは何も決め付けるべきじゃない、とは先ほどいいました。それはまったくその通りで、どこまでも自分自身と向き合い続け、心を擦り減らすように作品を作っていくことも正しければ、多くの人に受け入れられたいという欲求で作品を作ることもまた正しいのでしょう。(上ではエンタテインメント志向して否定的に捉えましたが、あるいはコミュニケート志向ともいうことができると思います。そしてそれは、僕も個人的に大きく同感するところがあります) しかし、表現活動のよりどころを著作権=ビジネスマンの権利として排他的に位置付けている限りは、逆にすべての表現の動機を「多くの人に受け入れられるため」のみに決め付けてしまっている(=そうでなければ表現する意味がない)ってことになるんじゃないでしょうか。それはあんまり悲しいことじゃなかろうか、と思うわけです。 |
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ここ1ヶ月ほど、IT・PC系のニュースサイト上を騒がせているものに、アメリカのSony BMGのコピィコントロールCD(CCCD)に含まれている、XCPおよびrootkitというソフトウェアが問題を巻き起こしている、というものがあります。このXCP/rootkitとやら、ご存知の方も多いと思いますが、レーベルがユーザによる自由な楽曲のコピィを制限するために音楽CDに潜ませたプログラムで、システム権限を乗っ取って自身の姿を隠蔽した上で(この手法がrootkitと呼ばれるものだそうです)、ユーザによる楽曲のコピィを制限したりその情報をネットワークに送出したりする。何よりこのソフトウェア自体が重大なセキュリティホールであり、他の悪質なソフトウェアに利用されてしまう恐れがあること、現時点でアンインストールは不可能(!)であり、無理に取り除こうとすると、CDドライブが使用不能になるなどのシステムの破綻を引き起こす……などという、そんじょそこいらのウィルスも真っ青な、トンでもない代物なようです。ここから先の詳細はそれぞれのニュースサイトを参照してください。
日本国内では一年程前にエイベックスやソニーがCCCDの採用停止(や弾力化)を発表するなど、CCCDは一時的な混乱だったかのように思ってすらいたのですが、いやいやどっこい、そんなことはなかったようです。 いま僕の手許にはCCCDが2枚あります。 いずれも佐野元春がEpicからリリースした、『君の魂 大事な魂』『月夜を往け』で、コピィコントロールはソニーのレーベルゲート2。もちろん、楽曲以外のデータが混じったディスクを喜んで購入したなんてことではなくて、公式に曲を入手するためのメディアがこれ以外になかったからです。とはいえ、実際このディスクを使用して特に不具合が生じたということもなかったのですが(常用しているリッピングソフトで普通に吸い出せてしまいましたし)、手持ちのCDプレイヤで再生できなかったとか、CDドライブのピックアップに無理な負担をかけるだとか、よくない情報はあちこちで見聞きしましたし、気分としてはいいものであるはずがありません。何より、自分の好きなアーティストの好きな曲を、お金を払って手に入れるというのに、その情報に余計なデータが混入されている。文字通り、自分の大切なものが“汚されている”印象を強く持ったものです。 アーティストの側も、当然このことに無関心であったわけではなく、多くの人たちからそれぞれに勇気ある声明が出されたりもしました。当の元春も、この頃発売が目前に迫っていた、ライブパフォーマンスを収録した新譜を、CCCDとしてリリースするというレーベルサイドの予定を白紙に戻し、自身の個人レーベルから通常の音楽CDとして発表しなおすという行動に出ています。※結果として、アルバムのリリースは延期され、またCDはショップに並ぶことなく、ネット通販でのみ入手可ということになってしまいましたが(これにはショックを受けた人も少なくないと思います)、ファンの多くは元春に賞賛や激励の声を送りました。かくいう僕も、実際にクリーンなディスクが手に入ったこと以上に、元春の心意気がただ嬉しかった。この頃のべつ幕なし「元春カッコいいなぁ!」ばかり言っていたのを思い出します。いやぁ、実際カッコいいから、本当に。 ※:これ以前から元春は新曲のリリースに際してレーベルと意向が食い違うことがままあり、その騒動が原因のすべてではないのかもしれませんが、後に20余年在籍したEpicを離れて、現在では新しく立ち上げたオリジナルレーベルDaisyMusicにて活動しています。 ※:また、CCCDとしてリリースすることが当初の予定だった、というような書き方をしましたが、後で調べてみると、通常のCD仕様として発売が迫っていたところに、CCCD版に変更したいと申し入れて、結果発売日を遅らせたのはレーベル側でした。CCCDにした場合、収録時間の都合上2枚組みということになり、それではライブ盤としての構成がめちゃくちゃになってしまう。そこで、元春側は当初のまま通常CDとして出すことを望み、上記のような決着をみたということです。このあたりの経緯は、佐野元春オフィシャルサイトMoto's Web Serverのニュースの過去ログに詳しいです。→該当ページ と、こんな具合でCCCDほんとキライキライだったわけですが、こんな風に企業が自社の商品に制限を加えざるを得なくなった根本の原因は、違法コピィやネットでの交換を止めない悪質なユーザの方にあるんだ。そんな具合に怒りの矛先としては、むしろ明確に利用者側の問題を向いていたのです。(かといってCCCDに賛成だったわけでもありませんが) 違法!とまでは言い切れないような、親しい間柄でのコピィや交換にも抵抗を感じていましたし、「わたしぃ、ミスチルとかちょー好きでぇー」と言いながらレンタルですべて済ませて購入したCDは一枚もないとかいう人は、もうハッキリと軽蔑していました。「お金を払うことが、一ファンがアーティストに敬意を表すための唯一の手段だ」と公言して憚らない。簡単にいってしまえば、そういう信条でした。(本当に公言してたわけじゃないですよ) 我ながら猪突妄信だったなぁと思います。この考えは、今でもある部分では変わっていませんが、またある部分では少し変わっています。この世界に溢れる様々な音楽(音楽以外も)を、僕たちは――この“僕たち”とは、ファンもアーティストも合わせてという意味です――もっと自由に楽しめるようになっていいんじゃないか。今では、そんな風に考えます。その“自由”が、ファンがより楽しむためだけではなく、アーティストがよりよい創作をするためにも、大切なものになっていくんじゃないだろうか。 まぁ、これもある意味妄信には変わりないのかも知れませんが。 「ユーザによる楽曲のコピィが著作権を侵害している(ゆえにCDの売上が低減している)」というのが、レーベルがCCCDを導入するための理由でした。また、そのずっと前からJASRACは著作権の保護を声高に叫んでいましたし、それが侵害されようとする機会を厳しく監視し続けてきたものと思います。CCCDに反対する意見はたくさん目にしましたし、今回の米Sony BMGのXCP騒動に関するリポートもそれこそ読みきれないほど上がってきていますが、そのほとんどには共通する言い回しが見られます。それは、「もちろん著作権の保護は大切だが」といったもの。そう、著作権は当然守られなければならない。そこに異を唱える余地はない(あるはずがない)。ですが、それでもあえて考えてみます。 「著作権」って、何でしょうか? (明日に続く) |
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