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暮れもいよいよ押し迫ってまいりました。忙しそうな人たちを眺めるにつけ、何だかこんなことしてていいのかなぁという気になってきます。どんなことしてるのかというと、それはナイショ。これもまた浮き足立った気分というのでしょうか。
前回のエントリィに書こうと思っていたのですが、書き始めの予想を裏切り、デッサンの話になってしまいました。ですので、ここでまた改めて。 前回は、斜め上から見下ろす視点で絵を描いていると、そこでかかるパースを意識できないことで、描き上がった絵には逆のパースがついてしまっていて描き直すことになる、という愚痴からでした。今思うと、この頃は机にトレス台を置いてその上で描いているのですが、件の絵は、たまたまトレス台をどかして机の上で描きました。トレス台は手前に向かって斜めに傾いているので、まっ平らの机よりは目との関係が平行に近くなります。普段その状態になれているために、机で描いた際にパースのズレが拡大された恐れがあります。皆さんも、どうぞお気をつけください。 この場合、斜め下方から見上げる視点で描いたものを真正面から捉えたときに、そこにパースのズレが現れる、というものですから、出来上がった絵を見る際にも、下から見上げれば自然に見えるはずです。 しかし、人間の目とはよくできたもので、真正面から見て自然な絵を斜め下から眺めても違和感を感じないのに、斜め下から見て自然な絵を真正面から見たときには、甚だ不自然な印象を抱きます。普段の生活で意識することのない“パース”やそれに対処する目の補正機能というものが、ここではそれを逆手に取る形で、改めて意識させられているからです。 いうまでもないことですが、絵というのは大体、どういう視点で見られるかを考慮して描かれています。有名なところでいえば、ダヴィンチの『最後の晩餐』が真正面から見ると、部屋の奥行と画面の奥行が重なるように描かれていることなどが挙げられるでしょうか。教会の礼拝堂に飾られるような、高い位置に置かれる大判縦長の絵には、それを想定して下から見上げたときに最も効果的な構図が選ばれているでしょう。しかし、この場合の「効果」とは先ほどの話とは逆で、下から見上げたときに発生するパースを補正するように描くのではなく、そのパースをより強調するように描く手法だと思います。絵のスケールや画面内の人物の偉大さを強調することがその目的でしょう。 西洋絵画が発展させてきた遠近法、特に一点透視画法(ズバリ、パースペクティブ)とは、見る方向や角度、視点を固定しないことには成り立たない手法です。一点透視画法とは、画面に単一の消失点を定めて(消失点は画面内とは限らない)画面のすべての奥行きがその一点に集束していく画法です。しかし、本来人間の視界とは固定された消失点を持ってはいません。見る対象の距離や角度によって消失点は無限に存在しますし、観察者が視界を移動させることで、その都度変化していくものです。このように、人間の視界からその多彩さを取り払って、システマティックに簡略化・単純化したものがパースペクティブとよばれるものです。それゆえに、誰でもその効果を利用できるのですが。 翻って、浮世絵をはじめとする日本の絵画には西洋的な遠近法がない、とよくいわれます。実際ないこともなく、そのものズバリ西洋絵画のパースペクティブを取り入れた浮世絵だって珍しくない(浮絵というそうです)のですが、印象派の画家たちに感銘を与えたというエピソードをもとに、僕たちが「浮世絵」といって思い浮かべるのは、あののっぺりとした均一な画面です。 浮世絵やそれ以前の日本の絵画が、パースペクティブを発展させてこなかったその理由については、学術の分野で考証がなされているものと思われます。僕にはそういう専門的な知識はありませんが、実際に絵を見てみると、その理由が何となく分かるような気がします。 襖絵や屏風絵などを思い浮かべてもらうと分かりやすいと思いますが、このようなジグザグに交差する平面上に連なった絵を描こうとする場合、そもそも単一の消失点など取りようがありません。絵を見る人間も、それがどこにいるのかを想定することはほとんど無意味です。このような条件の場合、パースペクティブとは別の遠近法、さらにいえば遠近法以外の何かが必要になってきます。観察点を固定せず、画面のどこをどのように見てもいいようにするためには、自然と画面全体は均一に、フラットになっていくでしょう。 これもひとつの絵画のダイナミズムです。西洋絵画のパースペクティブが、視点を定め、一目見た瞬間の効果のために用いた静的ダイナミズムだとすれば、日本的なフラットな絵画を構成するものを動的ダイナミズムだと定義してもいいでしょうか。(一方は矛盾した言葉、一方は重複した言葉のようですが) 絵巻物などの極端に横に長い画面は、さながらカメラがパンしていくように、視点を動かしながら見ることもできるのです。 僕の母親はマンガを読めないと言っています。理由は定かではありませんが、どうも滑らかにコマを追えない、紙面を見ていると気持ちが悪くなってくる、ということらしいです。最初は、単なるオタク的な図像に対する拒否反応かとも思ったのですが、どうやらそうでもないみたい。絵と吹き出し・描き文字がごっちゃになった画面を受け入れられないということかもしれません。イメージとシンボルを明確に別けておきたい性質なのでしょうか。 しかし、ここでパースペクティブというものについて目を向けてみると、もうひとつの仮説が浮かびます。マンガの紙面は枠線で仕切られたコマのそれぞれが、まったく別個の視点から描かれている。つまり、消失点や平行がごちゃごちゃに混ざり合っているのです。マンガは浮世絵のフラットな画面描写から発展していったものだともいわれていますが、浮世絵が一定の視点を定めないニュートラルな画面だとすれば、コマごとに視点を定め、複数の視点が同時に存在するのがマンガの紙面です。僕の母親の場合、このアクロバットに付いてこれないという可能性はないか。その都度その都度視点の変更を強制されるという意味では映画だってそうなのですが、映画の場合カットが潔く切り替わるのに対して、マンガは複数のコマが同一紙面上に並行して描かれているのです。それらが一度に目に入ってきたとき、マンガの表現に慣れ親しんでいない人が混乱を覚えるということも、あるいは有り得るのではないかと思います。 今回の話とはあまり関係はありませんが、複数の視点が同時に存在するひとつの例として。 これは、強引に解釈すれば、片方の女の子が無理な体勢をとっているとみることも出来るので、あまり上手い例とはいえません。 「ありえない立体」という範疇に属するイラストです。一時期、この手のモノに嵌まって、毎日のように描いていた事があります。 冒頭のモナ・リザは、毎日ものすごい混雑の美術館で、なかなかじっくり絵を見られないという鑑賞者の不満に応えて描かれたものです。絵に向かう行列の途中、絵の右側壁際から眺めることを目的としています。 |
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絵を描いていて、しばしば陥ってしまう落とし穴があります。それは、たとえばこんな具合。
机に向かってコピー用紙にシャーペンで絵を描いています。それは女の子の立ち絵で、縦長、A4サイズいっぱいに描いたある程度の大きさのあるもの。ポーズや表情、プロポーションなどウンウン悩んでシャーペンの芯と消しゴムをすり減らし、目の前の紙と格闘すること1時間余り。何とか納得のいくものが描けたと見え、シャーペンを置きます。描いていた絵はCGの下絵なので、スキャナにセットしてPCに取り込みます。CIS(使っているスキャナはスリムタイプなのです。CCDのスキャナが欲しい)がスライドして、読み取ったデータがUSBケーブルを流れてゆく、待つこと数十秒。さっきまで格闘していた線画がモニタ上に表示されたところで、絶叫。 「うわっっ、足ちっちゃ!」 なんてことはありません。机に向かって絵を描いているとき、視線は描いている絵(紙)を斜め上方から俯瞰しているために、画面にはわずかなパース(奥行き)がかかっています。極端にいえばつまり、紙の手前側が大きく、向こう側が小さく見えます。それを意識しないままに描くので、出来上がった絵にはこれとそっくり逆のパースがかかってしまったというわけです。 もちろん、絵をいつも同じ方向から描くということはあまりなく、むしろ紙をくるくると回して描くことの方が普通です。それに、バランスがおかしくないか、離れて眺めたり紙を摘んで顔の正面に提げて見たりすることもします。それでもこのミスからは容易には逃れられない。それはひとつに、紙をくるくる回して描くのは、ある線がある方向から描きやすいからという場合がほとんどで、回しながら全体はあまり見ていないこと。紙を摘んで正面から眺めることでバランスを確認するにしても、そもそもウンウン悩みながらも「これでいいだろう」という確証の上に線をなぞっている(描くとはそういう行為でしょう)ために、眺める角度を変えても、そこで変化するパース以上に、描きながら見ていたものがバイアスとして働いてしまう。それがパースによる歪みを隠蔽してしまって、結局はバランスの崩れに気付けないのです。 それがパソコンに取り取り込まれることで、機械によって容赦なく別の平面上に再現されることで、この歪みに否応なく気付かされるのです。そしてまた線画の描き直し、たいてい決定稿は2度目のスキャンです。無意識のパースがかかったゆえの歪みならば、Photoshopで反対方向にパースをかけて変形させればいいじゃないかとも思うのですが、せっかく絵を描く技術の至らなさに気付かされたのだから、これもエクササイズのチャンスです。 同人誌を作る際も、原稿作画時には気付かなかったのに、印刷されたものを見てすぐにおかしい所に気付く、なんてことがよくあります。あるいは、コンビニでコピーしただけで気付く場合もある。手を触れているものには、描きながら作りながら、それがある程度の時間をかけたものほど様々なバイアスがかかります。それらは、紙からモニタ上へ、あるいは印刷物へ、媒体が変わることで初めて気付くものが多い。これは絵を描いている方の多くに実感されることだと思うのですが、どうでしょう? 熟達するほど避けられるミスかもしれません。(つまりは、まだまだってことで……) 結局は、どれだけ自分の絵を客観視できるか、ということになるでしょうか。 こういうことを経験するにつけ、やっぱりデッサンは大事なんだなぁと思い知らされます。 僕は今まで、写実を描こうというのでないなら、デッサンは必ずしも必要ではないと思ってきました。ピカソやマティスもきちんとしたデッサンが出来るようになった上ではじめて大胆なデフォルメができたのだ、たとえマンガやアニメの絵でも、人物デッサンをするのとしないのとでは、その絵の説得力は自ずと違ってくる、そういうことを繰り返し教えられても、なお、です。アニメは動きが加わってくるのでここでは語らずにおきますが、少なくともマンガのキャラクタを描くのであれば、人物デッサンはいらない、そう思い続けてきました。今でもそう思う部分は多いです。 それは、マンガのキャラクタはキュビズム絵画のような、人間のデフォルメではないからです。キャラクタは最初からキャラクタとして生まれ、存在しているに過ぎません。もちろん、キャラクタの多くは作品の中で人間として描かれ、ストーリィを読む僕たちも、彼らを人間として見ています。しかし、それはあくまで彼らの内面であり、外面ではない。内面も外面も人間である必要があるなら、それは実写映画という表現形態に帰着するでしょう。そうではなく、マンガやアニメは人間ではないモノに人間の内面を持たせることで、逆説的に人間の営みや感情をより強調して描くことに成功した表現形態だといえます。(いうまでもなく、劇画やアメコミなどこの例から除外する必要のあるマンガもあります) そして何よりマンガのキャラクタにおいては、性格や行動・属性等と並んで(もしくはそれ以上に)、絵柄、もっというなら「描線」こそが、そのキャラクタの魅力の多くを負っているからです。僕の尊敬するマンガ読みは、それを快楽と呼びました。つまり描いて気持ちいい線、見て気持ちいい線ということが一番重要なのです。この“気持ちいい”という情動がどういうものに作用するのかは、それこそ人それぞれなので一概にはいえませんが、それは人物デッサンによるもの、つまり人間の身体をベースにしたものとは限らないということは経験的にいえると思います。 そのため、マンガを描く者としては、キャラクタの描線は人物デッサンによるものではなく、それが顔であれ身体であれ、描き手が描いて気持ちいい線を試行錯誤しながら見つけていくことこそが正しいのだ、そんな風に思っていたわけです。いや、正しいとか正しくないとかいう以前に、たいていの場合マンガの描き始めは、ちゃんとしたものを描こう、説得力のあるものを描こう等という殊勝な心構えからであるはずもなく、好きなマンガのキャラクタだったり、なんだか知らないけどついつい描いてしまうキャラクタだったり、そういうものを繰り返し描くことから始まるのだと思います。そもそもが初めから快楽づくなのです。もちろん、自分で納得する線は容易には見出せないし、快楽というにはあまりにも苦しい思いを散々します。しかし、それこそがキャラクタを描く醍醐味であり、「絵画」をやるのとは違う価値がそこには確かにあるんだと思います。 然るに。 その上でなお、デッサンは大事だと思うわけです。これは宗旨替えではありません。「キャラクタを描く上でも人間の身体を基本とすべきだ」と思い直したわけではありません。言ってみれば、僕の中でデッサンに対する誤解があったんだと思います。その誤解とは、デッサンとは実物のモノを正確に描き写すためのトレーニングであるということ。 はて、それって間違ってる?という向きの疑問もおありかと思います。僕自身、誰かに教えられたわけでも美術の参考書を読んだわけでもなく、何となくそう思うに至ったに過ぎないので、イマサラながらこれが確かなことであるという確証も自信もありませんが、それを前提の上で進めたいと思います。 最初に述べた、気付かないパースのせいで知らぬ間に絵が歪んでしまうという経験。これは言い換えれば、「これで良いのだ」と信じて描いたものが間違っていた、ということです。つまり、狂っているのは僕の視野であり、脳内のイメージと描いた画面とのギャップに気付けない視覚のいいかげんさが招いたミスです。そしてデッサンというものは、それを矯正するためのトレーニングなのでは、と思うのです。 モデルを前に描く場合でも、想像だけで描く場合でも、絵描きが画面上に写し出そうとしているのは、絵描き自身の脳内のイメージです。描き出すべき明確なモチーフが分からないままにそれを探しながら描き進めることもありますが、それだってその場その場で手がなぞるものは、紛れもなく脳内のイメージです。それをいかに正確に描き出すかに絵描きは全神経を費やします。 デッサンを実物と画面とを一致させるための行為とするなら、その必要はない、という判断になります。なぜなら、画面が写し取るべきイメージは脳内にあるのですから。そうではなく、その脳内のイメージを正確に描き出すためのトレーニング、それこそがデッサンと呼ばれるものなのだとすれば、すんなり納得できます。実物を前にして描くのは、<実物>←→<脳内イメージ>←→<画面>という“三すくみ”構造を取り入れることによって、それぞれの対比をより明確にする効果がある。<実物>を鏡にして<脳内イメージ>と<画面>とを照らし合わせる行為ともいえます。そのすべては、<脳内イメージ>をより明確に掴むことを主目的としています。 したがって、デッサンは必ずしも必要なものではありません。<脳内イメージ>と<画面>とを地道に対比させて2者を近付けていくことだってできる。前述のように、その行為がキャラクタを描く快楽であり醍醐味であるともいえます。デッサンはその手助けにも有効でしょうし、しかし一方ではその快楽を奪ってしまうことにもなりえます。なるほど、いつでも脳内イメージをサラサラっと描き出せたなら、それはものすごく気持ちいいことでしょう。デッサントレーニングによって、脳内イメージをより正確に掴めるようにはなるかもしれません。しかし、それが可能になったとき、その脳内には純粋培養された快楽のためのイメージは既に無く、「正しい/正しくない」という余計なファクタに汚染されてしまっているかもしれません。 僕がデッサンもやっぱり大事なんだと思い直し、それでもなおデッサンによらずに描くことの意義も未だ信じ続けているのには、そういった理由があります。 |
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近所のホールでピアノリサイタルを聴いてきました。おとーさんがチケットを取ってくれました。ピアニストはマウリツィオ・バリーニ。30歳のイタリア人。NHKのイタリア語口座に出たこともあるらしいので、ご存知の方もいるかも。
e+ マウリツィオ・バリーニ特集ページ セットリストは、
(休憩) (アンコール) トルコ行進曲/モーツァルト エチュード『別れの曲』/ショパン やっぱり、ショパンとリストが多いですね。この2人は並び称されることも多いですが、僕はショパンは大好きなのですが、リストはあんまりピンとこないというか……「すげぇー」「きれー」と思いはしても、何かこう、胸にグッと迫るものが無いというか。ピアノが好きになったきっかけがショパンだったため、単なるその刷り込みなのかもしれませんけども。 マジメに理由を探してみると、たとえば僕はロシア民謡なんかも好きなので、ポーランド人であるショパンの、スラヴ民族の叙情性が好きなのだ、ということも出来るでしょう。けれども、もっと思うことがあって…… 勝手なイメージの話ですが、ショパンが才能はあるのに何となくいつも後ろ向きで自分に自信が持てない、年上の恋女房に支えられながら曲を書く線の細いナイーブな王子さまというキャラクタなのに対して、リストは自分の才能を信じてひたすら高みを目指してゆく完璧超人の超絶美形エンペラーという印象があって、かいつまんでいえばダメかダメじゃないか、ということかなと思うのですが、僕はダメなものにグッとくる傾向が強いのです。そんな自己考察がもうかなりダメな気もします。 ショパンの絶望、ショパンのメランコリィ、時には希望や甘美でさえも、その発端はダメに尽きるんじゃないかと思うことがあります。このダメというのは、本当はこうありたいのに出来ないという、自分に対する希望と失望、肯定と否定の板ばさみ状態で、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い浮かべてみてもらえれば分かりやすいでしょうか。「自分を信じる完璧超人」などよりある意味もっとナルシスティックということになりますが、僕にとってはそれが人間としてのデフォルトで、その状態から発せられたものが「祈り(かなり自己チューな祈りですが)」というものなんじゃないかと思います。この文章がもうかなりナルでダメな臭いプンプンって感じですけど、ええい、もう毒を食らわば皿までだ。 このダメの系譜で好きなアーティストを挙げると、ミスチルやaikoさんやウルフルズ、何人かのジャズマンなんかの名前が浮かびます。とはいえ、実はダメはとっても歌になりやすいので、それが素直な告白であれただのポーズであれ、音楽の中にダメは溢れているともいえます。しかしそこにも肌に合うダメと合わないダメがあるんですね。「こんなにもダメな俺が」と叫ばれても、そんなの全然ダメじゃないじゃんと言ってやりたくなることもあります。なるほど、ダメとは自己チューな祈りなわけですから。 好きなダメのクラシックといって外すわけにはいかないのがラフマニノフです。彼の最も有名な曲はピアノ協奏曲第二番ですが、この曲が書かれた経緯がまた振るっていて、学生時代に書いたオペラで華々しいデビューを飾っていた彼は、その3年後にサンクトペテルブルグで発表した交響曲を聴衆にこき下ろされて極度のノイローゼに陥ってしまう。それから長いスランプに沈んでいたところを精神科医の催眠療法で「キミは大丈夫!やればできる!大丈夫!素晴らしい曲がスラスラ書ける!!」と繰り返されて、見事歴史に残る名曲を書き上げてしまった。この協奏曲は、全体の構成の上手さとかの専門的なことが分からなくても、随所に出てくる印象的なメロディの数々がひたすらにカッコよくて大好きです。 名曲とそれに伴うダメなエピソード、そしてスラヴ・ロシアの叙情性とショパン・リストに影響を受けた流麗なピアノ、僕にとってラフマニノフこそはまさに運命的な音楽家といえます。 と、気付けば聴いてきたピアノリサイタルと関係のない話をまた長々としてしまいました。メジャーなレパートリィに軽やかな演奏、心を振るわされるような感動こそあまりなかったものの、寒い週末の午後にほっこりと楽しめました。何より、久しぶりにグランドピアノの音を生で聴けたのが嬉しかったです。 このマウリツィオさんは、はたしてどれくらいダメなピアニストでしょうか?それを知っていれば、もう少しのめり込めたかもしれません。いやいや、人もいいけど、もっと音を聴くようにしないといけないかもしれませんね。 あと、そうそう、 『のだめ』13巻読みました。Ruiちゃん可愛いですね。 |
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暇つぶし、とはよくいいますが、本当につぶす以外にどうしようもない暇を抱えて途方にくれるなんてことは滅多にあるものではなく(そういう状況は願うべくもない幸運といえます)たいていはつぶすための暇をわざわざ、こそこそ、それはそれは丹精込めて作っているのです。他にいくらでもやるべきものはあって、それには目をつぶってひたすら作ってはつぶし、つぶしては作りの日々。それをやめることは、そんなに難しいことじゃないんじゃないかしらと思いつつも、なかなか今まで実践できずにいます。それは暇つぶしがやめられないのではなく、暇作りがやめられないから。しかしなお、それでもあえて、暇作りからの脱却を試みます。 このブログは暇つぶしでしょうか。そのための時間をあえて作っているという意味では同じです。生まれてから死ぬまで、人生そのものが暇つぶしみたいなもんだ、という名言がつい口を突きそうになるのを、ここでは呑み込んでおきたいと思います。(呑み込めてるか?) 最近コーヒーが切れてしまいました。 音楽も絵画もコーヒーも好きですが、感覚的なものの理解は苦手だと思っています。プロとアマの演奏を聴き比べても、その違いが分かるような分からんようなですし、絵の方はそれよりかは若干見る目もあるかなぁ……と思うのですが、どうにも自信がないのですぐに「結局は好みの問題じゃないか」とか言ってしまう。そんな感覚音痴の僕ですが、レギュラコーヒーとインスタントコーヒーは、まったくの本心から、同じ“コーヒー”の名を持つべきじゃないと思います。たしかどこかで、インスタントは成分的にはレギュラと同じと読んだ気がするのですが、それはきっとクローンで同じDNAを持つ生き物を作っても、環境でまったく違う性質になってしまうことと同じだと言いたいところですが、そんな大掛かりな例え話は別に要らないかもしれません。(もしくは、インスタントはレギュラの不可逆圧縮だと言ってみる?) そんな感じで、味音痴でしかも慢性鼻炎で鼻もよくない僕は、粉を溶かした液体はコーヒーとは呼べないので、コーヒーを飲みたくなったら電動ミルで豆を挽きます。その豆が先週末に切れてしまって、淋しい思いをしています。 買いに行けばいいじゃん。えぇ、そうなんですけど、いつもコーヒーを買いにいくお店のある街に他に用事が出来るまで待とうと思ったり、それを忘れたりしながら、気付いたら「あぁ、コーヒーがない……お茶いれようか」ということをここ数日繰り返しています。 そんなときに佐野元春のウェブストアで新曲をイメージしたコーヒーを発売、ということを知り、面白いなと思って勢いで購入してしまいました。でもこのコーヒーセット、量に対して値段が高いです。コーヒー豆の相場というものをあまり知らないのですが、僕が買っているお店では200gあたり700円前後から高くても1,500円ほど。ブルマンはその2〜3倍。お店のマスタはかなり頑張っている価格設定だと言っていました。しかし、この元春セットはそのお店の一番高い豆よりさらに1,000円以上もします。プレミア価格というものでしょうか…… まぁ、お店で袋に豆を詰めてもらうのと違って、オリジナルのパッケージングもされてますし(そこが魅力でもあるんですが)その他の諸費用もあるでしょう。このウェブストアからして、儲けを出すことを目的にやっているような感じがあまりしないので、これはこれで順当な価格なのかもしれません。 でもこの商品が届くのは今月中旬以降ということで、今ここにあるコーヒー飢餓の解決には全然なってくれないのです。何より、新曲発売記念である件のコーヒーセットの、その元になった新曲もまだ聴いていないのです。あぁそうだ、キンモクセイのシングルもまだだ……… 明日買いに行こうかなぁ。 冒頭の写真はフレンチプレスで入れたコーヒーです。元春コーヒーのページの対談で呼んで、初めてやってみました。なんでも、ペーパドリップやネルドリップでは、豆の旨味成分であるオイルが漉し紙や布に吸い取られてしまうのだとか。カップに注ぐと、コーヒーメーカのような泡が浮かんで楽しい。飲んでみると、たしかに「う〜ん、マンダム」というかドシンとした存在感が出ました。いつも飲んでるのがコーヒーならこれはコーヒーという感じ。美味しいと思いましたが、やっぱりドリップしたコーヒーの香り立つ透明感も捨てがたいです。でも、手間がかからないのでまたやってみようと思いました。 こういうコーヒーが飲みたいと思うこともありますしね。 |
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先日買ったカーペンターズのCDですが、色々聴いてみると何曲か聞き覚えのあるものと少し違うような……… マスタリングが違うというより、ミキシングが、もっと言うならテイクが違う気すらします。たとえばひとつに、Top Of The Worldのギターの弾き方がまったく違う。これはいったい?詳細をご存知の方がいらしたら、教えていただけると嬉しいです。
最近いたたまれない気持ちになるような事件が繰り返されていますが、今朝の朝日新聞の朝刊一面の「子供を守る」というシリーズ記事に「『一人にしない』通学路を再点検」とありました。現状ではそれも止む無しか、というのが大方の意見でしょうし、僕も、まぁそうかなと思いますが、そうなったらそうなったで今度は子供が気の毒だなとも思います。保護し管理するということは翻って彼らの自由を奪うことにもなる。いうまでもなく、一人になるということは子供の情緒面にも大切なことでしょう。一連の事件で子供はあくまで被害者であり、本来一人にすべきでないのは犯罪の潜在性を抱えた大人の方です。しかしそういう気持ち悪い人には誰でもあまり近寄りたくはありませんよね。さて、どうしたもんでしょうか…… 昨日の新日曜美術館は面白かったです。現代アートということで、最初はそれほど興味を持って見始めたわけではないのですが。多くの人がそうだと思いますが、僕も現代アートというものがよくわかりません。「既成の美術の限界を打ち破ることで、美術とは何かを問いかける」とか言われても、ただの屁理屈を捏ね回しているとしか思えないことも多い。しかし、番組を見て思ったのは、この屁理屈を捏ね回すという行為がひとつのアートになりうるんだ、ということ。鑑賞者がわかる・わからないのではなく、アーティスト本人が楽しんでそれをやっているから、それでいいのだ。鑑賞者には、作品に触れようとするのではなくアーティスト自身に触れようとする姿勢が求められる、ともいえるかもしれません。それだけこの番組に登場したオジサンは、作品よりも本人の人柄やその語り口の方がずっと魅力的だった。そして、本人を知った後に作品を眺めると、その作品が何かを語り出すような気に、少しだけなるのです。 現代アートといって思い浮かぶのは、たとえば岩やコンテナといった大掛かりなものを組み合わせた巨大なオブジェ。そういうものは、それを発想するアーティストの他に、岩石を削ったり鉄を加工したりするために土木関係のプロフェッショナルが必要になってきます。彼らは本来建築や工業製品などの実用品を手がけているはずで、そういう人たちが意味不明な、何の役にも立たないガラクタを作るために呼ばれて、いったいどういう気持ちなんだろうと考えたことがあります。作業中のアーティストと職人さんたちの関係を想像すると、なにやら薄ら寒いものが漂ったりして…… しかし、番組を見てその想像も払拭されました。鉄を曲げる、岩を動かす、それだけのことに彼らは一緒になって至極真剣な顔をしている。何のためかはともかく、とにかく楽しそうなのでした。こういうモノそのものに触れる喜びというものも、現代アートをやる大きな理由のひとつなのかもしれません。そういうものは鑑賞者としては知りえぬ範疇のことで、何だかすごく損した気持ちにもなります。けど、僕自身にもまったくの同意をもって理解できたことがあって、それは「木炭はアーティストにとっての麻薬だ」という言葉です。描いては擦り、擦っては描き、手を真っ黒にして描き続けていると、気持ちがトリップしてきていつまでもそうしていたくなります。 もうひとつ気になったのは、「キャンバスを立ててそれに正対して描いていると、絵描きのエゴばかりが大きくなる」という言葉。言葉の真意は未だよくわからないのですが、何か引っかかるものがあって、ちょっと時間をかけて考えてみたい気になりました。 作品に接して「何が言いたいのかよくわからない」と思うことは、その作品自体に価値を見出せないということだと思います。しかし、それこそが現代アートの目論見のひとつであり、「既成の美術の限界」とは、つまり作品自体の価値ということではないでしょうか。11月29日のブログに、作品とは本来アーティストと鑑賞者を結びつけるための媒体に過ぎぬはずなのに、作品の価値ばかりが一人歩きをして、今では誰もがモノとお金の交換をすることだけに躍起になっている、というような趣旨のことを書きました。現代アートの意味不明なオブジェなど、お金を払って所有したいとはあんまり思いません。けれども、そういうものこそが、アーティストの発想をよりダイレクトに表現できるのだとしたら。 誤解のないように付け加えておきますが、お金を出して所有したくなるような作品を、芸術作品として否定したいわけではありません。そういう作品ももちろん存在意義はあると思いますし、僕も現時点で所有している作品、所有したいと思う作品は、少なからずあります。しかし、そういうものとは別の性格の芸術もやはり存在する意味はあると思うし、存在していて欲しいと思います。 |
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僕は洋楽も好きなのですが、かといって全然マニアックな趣味があるわけでもなく、ビートルズやカーペンターズといった基本どころしか聴きません。別にそういうポリシーなわけではなくて、ただ単にいろいろ探すための努力をサボっているのです。(それは邦楽にもいえる) 最近では、シザーシスターズのTake Your MamaとかO-Zoneの恋のマイアヒなんかがラジオから流れてくるのを聴いてお気に入りに加えました。マイアヒ、もといDragostea Din Teiは、なぜか妙な取り沙汰され方をしましたが、実際あれはいい歌だなぁと思いました。この頃気づいた僕の音楽の嗜好の傾向は、メロディや詩よりもまずは音、楽器や何よりボーカルの声がびびっとくるかどうかだ、ということです。みんなそうかもしれません。どんなにストーリィが良くても絵が受け付けられない漫画は読めないように、やはり嫌いな声の歌はどうしたって聴けません。
O-Zoneもシザーシスターズもミスチルも佐野元春も、僕の好みはきれいな声というよりどっちかっていうと少し変な声寄りなのかなぁと思うこともあるのですが、そういう意味では例外的に(というわけではないだろう)好きだと言えるのはカーペンターズです。美しい声の歴代コンテストがあったとしたら、カレンはもうぶっちぎりの優勝です。この声を嫌いだという人は、とりあえず地球上の人類の中にはいるはずがない、と個人的に確信しているのですが、反論されたところで建設的な議論ができるとも思えないので、まぁ、放っておいて頂くのが一番かと。 最近アマゾンでカーペンターズのアルバムを買いました。カーペンターズは中学の頃ぐらいからずっと好きなのですが、持っているCDはNow & Thenと、どっかから出たベストアルバムだけ。あとは初期のアルバム数枚をMDにダビングしたものをずっと聴いていたという感じでした。数日前に著作権についてなかなか偉そうなことを書きましたが、まぁ実態としてはこの通りなのでした。てへっ。 そんなわけで、そのうち絶対にオリジナルアルバムを集めようと思いながら幾年月、別に何がちょうど良かったわけでもないのですが、この度ファーストのTicket to Rideから7枚目のA Kind Of Hushまでを大人買い(この程度でそれを言うか)した次第。前述の通り、5枚目のNow & Thenはもう持っていたのですが、購入したものがすべてデジタル・リマスタ・ヴァージョンの輸入盤であり、どうせなら全てそれで揃えてしまえということでこれもまた購入したのです。ところがぎっちょん、こいつがちょっとしたトラブルを抱えていたのです。(ちなみに、Ticket to Rideは入荷が遅れて後日別送になりました) CDプレイヤで聴いていたときには気付かなかったのですが、曲をiPodに入れて聴いていたところ、すぐに違和感が。曲の区切り目がなんだかおかしい。具体的には、曲の最後に次の曲の頭が入ってしまっているのです。コンマ以下のごくわずかな時間ですが、どうやら全曲にわたってズレている模様。ご存知の通り、Yesterday Once Moreから始まる元のLPレコードのB面はメドレー形式となっており、そのため曲の区切りも微妙ではあるのですが、こちらもちょっと気をつけて聴いてみればやっぱり不自然。一瞬無視しようかとも思ったのですが、やっぱりどうしても気になるので、もう一度リッピングしなおして、WAVエディタで曲の最後を切り取って次の曲の最初に足していく……という作業を15曲分やりました。仕事量としては大したものではないとはいえ、ファイルサイズも大きいですし、毎度読み書きで待たされること数秒、結構くたびれました。何より「何でこんなことせなあかんの」という気持ちは膨らむばかり。どうせならLP・B面のメドレーは全部繋げちゃった方がいいかも、とは思いました。元々そう聴いてもらうことを考慮されてるわけですし。ただそうするとThe End Of The Worldの頭出しができなくなるわけで、どちらを取るか悩みものです。ポッドキャストで落とせるものの中には、ひとつの曲のなかでチャプタをわけているものがありますが、その機能を個人でリッピングする場合にも使えるようになったらいいのに。というか、完璧な曲間ゼロを実現してくれれば、こんな悩みもなくなります。 こういうディスクが出来上がってしまったのは、リマスタリングの際のミスが原因なんでしょうか?念のため、既に持っていたNow & Thenも聴いてみたのですが、こっちは何ら異常はありませんでした。デジタル技術で音が良くなるなら嬉しいですが、こういういいかげんな仕事は、ちょっと勘弁して欲しいです。 |
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数年来(7年くらいかな?)好きな作家に森博嗣がいます。
好きな人には何の説明も要らない(ほとんどのことはそうですが)けども、ミステリィ作家です。ブレイクし始めた頃、「理系作家」という異名で話題にもなりましたが、今でもそうなんでしょうか。単に建築学科という舞台、プログラミング等のガジェットからそう呼ばれていたのか、もっと作品の根幹に関わる部分に理系たる要素があったのか。森博嗣本人に言わせれば、文系を自称している人間以外が理系だ、ということらしいですが、たとえば人物の特性や状況等から人間心理を考察することは、理系の分野でしょうか。心理学や精神学も、医療として考えれば理系だろうし、プロファイリングなんていうのも理系の方に収まる気がします。そうなるともはや理系というより科学といったほうが正しいだろうし、いやそれをいうなら文系だって科学だろう、ということにもなって、結局森博嗣が特に理系作家と呼ばれる(た)のは作品中の理系的振る舞いが目立って、それがカッコいいからだろうと思います。なんだそれだけか。 その理系的振る舞いというのは、たとえば帰納・演繹を用いた体系だった考察の仕方がそうで、それが文系を自称している人間には新鮮だったものと思います。(僕がです) なんとなくや感性といったものに明確な理由を与えようとする。また、物事を抽象化する手際などが見事で、そこんところに参っちゃったんだと思います。(僕がです) それは小説内だけではなく実生活においても同じで、たとえば植物の変化と人間社会の現象との間に共通性を見出すなど、こじつけだろうと思ってしまうことも時々あるのですが、中にはホントに感心してしまうようなアイデアもある。極めて当たり前なことを発見できる人は、やっぱり頭がいいんだなぁと思います。ここで当たり前というのは、「誰でも知っている」という意味ではなく、「理由がシンプルで明確」という意味です。 森博嗣が10月からブログで日記を連載しています。(MORI LOG ACADEMY) お気に入りだった浮遊実験室に比べると多少?マークが浮かぶこともないではない(時々ある政治的な発言には個人的に勝手な違和感を抱くこともあります(この発言がそもそも政治的))ですが、毎週楽しみにチェックさせてもらっています。 11月28日の更新(4日遅れの更新なので、実際には最新のエントリィです)大陸移動説もまた、面白い話でした。氷河期の海面の低下と大陸移動説は、別に相反する説じゃないと思うんだけど、どうなんだろう。僕の読み方が間違ってるだけかもしれません。 後半のタイムトラベルの話は面白かったです。今までもずっと謎に思っていたことなんですが、そもそも位置とは何なんでしょう?最近の調査で、太陽が地球の周りを回っていると思っている小学生が全体の4割以上いるということが分かった、ということがありましたが、それはただ知識がないだけで、それを教えればいいだけのことではないでしょうか。(それを教わっていないことが問題だ、という趣旨の報告だったかもしれません) 大人でも「天動説は間違っていて地動説が正しい」ということを単なる知識以上に理解している人はそういない。かくいう僕もよく分かりません。地球が太陽の周りを回っている、といえるのは太陽系というものが、1個の太陽:多数の惑星という関係だからで、もしそれが1:1の関係だったなら、そのときはどっちがどっちの周りを回っているのかを決められるものなのでしょうか。単純に質量が大きい方がマスタ、小さい方がスレーブということになるのか。月は地球の周りを回っているということになっていますが、その逆ではないという証明はいったいどういう風になされたのか(なされているのか)。太陽に対して地球の中心点を正確に結んだ線、いわゆる地球の公転軌道は、本当にきれいな楕円形なのか。乏しい知識から想像するに、地球と月とは互いに引っ張られつつお互いの周りを回っているので、地球の軌道はでこぼこの楕円になるんじゃないだろうか……そんなことを思ったりもしてしまいます。 ここまでの話は太陽が不動であるという前提の上ですが、そもそもそれだって間違ってるんじゃないか。銀河系は誕生以来膨張し続けている(という立証はされたのかな?)らしいし、それなら不動というよりむしろ浮動、太陽系ごと移動していると考えるのが自然ではないか。突き詰めると、「一定の位置」というものが果たしてありえるのか、位置というものは、そもそもが相対的にしか決定されないものであるのでは。無限に広がる空間の中でたった一つのモノが存在している場合、「そのモノがどこにあるか」をいうことができるでしょうか?ここまで来て僕の思考は行き止まりになってしまいます。 この考えを帰納・演繹によって実生活での経験や人間心理に適用させようとするならば、たとえば ある問題に対処しようとするとき、そもそもの問題の真の所在を見定めることができていない場合が多い。それはきっと、ターゲットが浮動であると認識することはできても、実は自分自身も浮動であるということをしばしば忘れてしまうからだ。広い宇宙をふわふわと移動する球体の表面にへばりつきながら「地に足がついている」などと錯覚してしまうことと似ている。 てなことがいえるでしょうか。 |
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昨日(11月30日)は、上野に北斎展を見に行ってきました。メンバは、僕の他には友達のフルーチェとキノ。
その後、近くのファミレスにて語り明かし描き明かし、家に帰ってきたのは今日(12月1日)の昼前のことでした。というわけで、ブログの更新が一日空いたことの言い訳ですけど。(それがなくても、この先毎日更新というわけにはいかないでしょうね) そんなこんなで、 ![]() です。 上野に集合したのは予定より少し遅れて2時過ぎ。平日だというのに入り口には30分待ちの行列ができていました。まずここでビックリ。美術館に並んで入ったのは本当に久しぶり。たしか、親と一緒に京都でドラクロアを見たとき以来だと思います。入ってからは、まぁ混んでいるなという程度で、それほど鑑賞に差し障りがあったほどじゃなかったので、一安心でした。 まずため息が出たのは、作品数の数。今回のことに限らず、会場のすべてを見終わる頃には足腰が軋んでホトホト疲れ果てているのは、いつものことではあるのですが、他の展覧会では何とか派だったり何とか様式だったり、まぁいってみれば何人も寄り集めた結果の規模であるわけですよね。それに対して、今回は北斎ひとりの手による個展なわけで、まぁ一言でいえば「あんた描きすぎだよ……」ということです。それは作品数だけではなく、そのバリエーションにおいても同じことが言えますね。 絵はその繊細で緻密なタッチ(ついつい「上手いなぁ」を連発してしまう。当たり前すぎて恐縮極まりないのですが)ももちろんですが、その発色の鮮やかさといったら。最先端の家庭用プリンタでプリントアウトしたイメージだって、もう呆れるほどすぐに色が褪せてしまうのです。それが160年も170年も昔の絵が惚れ惚れするぐらいきれいな色で残っている。途中一緒に見ていたおばあちゃんがが、「いやぁ、よく残ってたもんだよー」と何度も繰り返してましたが、90歳を超える人に(付き添いのおばさんがそう言っているのを聞いたので、事実です)そう言わしめる凄さは、やっぱりタダ事ではない。 富嶽三十六景を見ていて思ったのですが、水や空の表現など、どこまでもデザインし尽くされていて、世にいう写実とは正反対の方向だとは思うのですが、でも実際の風景(記憶の中の風景かも)って、こういう風に見えるよなぁ、ということをつくづく感じました。普段慣れ親しんだ西洋の遠近法とはまた違いますが、そういう絵に接しながら、その場の空気感というものはダイレクトに伝わってくる。北斎に限らず、優れた風景画に接したときは必ず感じることです。何度味わっても面白い経験です。 写実とは違った方向で、イメージをそのまま捕らえようとする表現といってまず思い付くのは印象派ですが、実際にこれらの絵と北斎なんかを見れば、それを素直に感じたりします。印象派といえば、同時期に上野で開催しているプーシキン美術館展がありますね。印象派は一時期熱狂的にのめりこんだこともあったのですが、最近あまり食指を動かされません。(ルノアールなんかをみるとつい舌打ちなんかしちゃったりするのですが、これはまた別の話)ので、見に行く予定はありません。ロシアだし、主催も朝日新聞(家でとってる。北斎展は日経)だし、ちょっとは義理を果たしてもいいと思うのですが……… ちなみに、遠近法や色彩表現等の西洋絵画の様式と、北斎も決して無関係だったわけではないようです。好奇心旺盛な彼ですから、表現の可能性の前にはどんな様式的壁も無意味だったかもしれません。あたかも油絵のような塗りの花鳥画もあって、それもまた素敵でした。 今回の展覧会では、観客の態度もいつもと少し違う印象でした。神妙な面持ちで声を潜めて鑑賞しているという感じはあまりなく、面白い絵の感想を素直に口にするし、楽しいときには声を出して笑うし、絵と観客との距離もより近い感じで、そんなナチュラルな雰囲気がまた楽しかったです。こういう素敵な展覧会を作り出したのは、紛れもなく北斎という人間の大きさなんだと思います。 画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)とは、75歳を過ぎた北斎最晩年の画号です。こんな名前を自分につけちゃうおじいちゃんというのは、やっぱりどうしようもなくカッコいい。惚れました。 |
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