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2月10日、初午詣でに家の近くの稲荷神社に行ってきました。近くといっても、車で30分くらい。場所は秦野の白笹稲荷で、何でも関東の三大お稲荷さんらしいのですが、実際はこじんまりとしたお社様でした。きっと、普段は静かなところだと思いますが、この初午詣では稲荷神社にとって大切な行事らしく、沢山の人がごった返して境内にちょっとした参拝列が出来ていたくらいです。参道に出店もいっぱいで、久しぶりにお祭りの雰囲気を味わえて楽しかったです。
「初午詣で」は、二月最初の午の日に稲荷神社で行われるお祭りです。今年はそれが10日でした。立春の直後ということで、おそらく春に向けて実りの祈願をするのだと思います。僕も、もう少し生産的な人生を送りたいです、とお祈りしてきました。 最近、中沢新一の『アースダイバー』を読んでから日本人の信仰というものに興味を持っています。明確で説得力のある一神教のルールに覆い尽くされて久しく忘れ去られている土着の信仰。それは時に奔放で悪趣味にも見えて、掴み所はなく、あちこちで矛盾をほったらかしにしているようにも思えるのだけれど、その矛盾をそのまま受け入れるということが、自然とともに暮らすこと、世界を支配せずにこの世界に生きることに繋がるのかな、という気がします。あまりに抽象的で何が言いたいのか自分でもよくわかりませんが、そういうことを考えるのは面白いな、とこの頃よく考えます。 たとえばキリスト教に題材をとった絵画や音楽は、悲劇や苦痛や悔恨がどうしてあんなに美しいのかとよく思います。バッハのマタイ受難曲なんて蕩けるくらいに甘美だし、キリストのイメージに何らかのエロティックな印象を抱いている人は少なくないでしょう。ルネサンスの画家が繰り返し描いたマグダラのマリアの悔恨なんて、もうほとんどエクスタシィです。実際に本当に悲劇や苦痛や悔恨のさなかにいる人は、そんな優美に打ちひしがれてる場合じゃないと思うんですよね。もっと悲惨でみっともなくて、きっと目も当てられないのが普通だと思います。 言ってしまえば、キリスト教芸術はどれも「出来すぎ」なんですよね。それが非キリスト教圏の人間にとっては、時に白々しく感じられもするわけです。知り合いがキリスト教絵画の展覧会を観た感想で「あまりに人工的で気持ち悪かった」と言ったことがありましたが、これもそういうことなのかな、と思います。 しかし、これがキリスト教の宗旨なのです。最も深い悲しみに沈んだ者こそが美しいといい、最も愛する者こそが救われるといったのがキリスト教です。悲しみや悔い改めは、至高の感情として最大限に尊重されます。人間のある感情を美しいとして、その価値を称えたのです。悲しみや絶望、救済や愛といったものを定義する。モラルを規定し、正義を励行する。国家が、経済や軍事力といった物質的なパワーで人間を支配するのに対して、形にならない人間の心を支配してきたのがキリスト教(をはじめとする宗教)だといえます。つまりは概念操作です。そのようにして、悲しみとはこういうものだ、罪悪とはこういうものだ、愛とはこういうものだ、と人々に教えてきたのです。その意味で、ローマカトリックの担ってきた役割というのは、今でいうハリウッドのそれにかなり近いものがあると思います。 僕はキリスト教芸術も好きなものもいっぱいあるので、その価値を認めないわけでは決してありませんが、優れた作品としての壮大さや美しさ、それらの基になったものが志向した人間性やら単一のルールやらが、この世界中に少なからぬ無理をさせてきたことも否定することは出来ません。しかし、「ただ作品として楽しむだけ」と割り切っていても、既にそれが一部の教義を受け入れたということになってしまうのかもしれません。そんなこと知ったことじゃないです、と一蹴するのもアリでしょう。 キリスト教以外でも、イスラム教やユダヤ教などの一神教では、倫理観や人間性といったものが矛盾なく規定されているような印象があります。そもそもが、そのために単一の絶対者を立てる必要があるのかもしれません。一方で仏教なんかでは、「これが人間だ」と規定するというよりも「人間とは何か」を探求する、どっちかというと哲学に近いように思えます。神学にとって「矛盾」という言葉はあまり馴染まないような気がしますが、哲学にとっては「矛盾」こそが第一の研究課題です。それは最終的な目的を同じとする、別々のアプローチなのかもしれません。 僕の場合は、世界を支配する・人間性を規定するといったマッシヴな生き方はやはりどうしても馴染めないので、いつまでも探し回っては右往左往する生き方が性にあっていると思います。矛盾を矛盾のまま抱えているのが許されるのなら、それが何よりです。 日本のお稲荷さんをはじめとする民間信仰もそうだし、今のようにキリスト教が浸透する以前には世界中にそれぞれ土着の信仰があって、それらが動植物の生態系のように複雑な位相のグラデーションをなしていたはずです。北欧神話、ケルト神話、エジプト神話、東南アジアやメソポタミアの悪霊伝説、ネイティブアメリカンやアイヌの死生観、ギリシア神話や日本神話の破天荒な神々、アフリカ、オセアニア、太平洋の小さな島々まで、それらは人間のいるところにはどこにでもあって、それぞれがそれぞれに奔放で矛盾に満ちているものと思います。それを想像するだけでも楽しい。 おみくじを引いて、出店で団子と鯛焼きを食べて、お土産のオコシを買う。一年に数回だけ、神様の御前にお参りするときに胸の中に感じる懐かしい感じ、信仰心・の・ようなもの、を実生活にどう結び付けていけばいいかをぼんやり考えながら、ゆったりと車を運転して帰りました。穏やかな午後、カーオーディオでお気に入りの音楽、益体もない心の中。久しぶりに、とても楽しい時間でした。 |
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いやぁ、ものすごく久々のエントリィになってしまいました。ちょっと気を抜くとこれですからね、気をつけないと……
ここではそういう話をしてこなかったので、何だか急でアレですが、同人誌の新刊、昨日入稿しました。最初に「出す」と予告してから、実に約半年もの延期をしてしまいました。反省、いや、猛省。今までに何度したか知れない猛省。2/19日のコミティアにて発表します。いちおう、"For Adult"ですので、念のため……(なんの念だ?) 最近、ファミレスの「Denny's」の看板の上にそれよりも大きな「セブン&アイホールディングス」の看板がかかっているのをよく目にします。実際にそこにあるお店よりも、その親会社やあるいは持ち株会社の方が前面に顔を出しているのですね。時代だなぁと感慨。でも、セブンイレブンを探してて、ついDenny'sに入りそうになってしまうので、正直紛らわしいです。 雑誌の立ち読み目的で久しぶりに本屋に寄ったら、何年か前にスピリッツで読んだ秋重学(画)と川崎ぶら(作)のバンドマンガ『愛と青春の成り立ち』が単行本になっているのを見つけまして、すぐさまレジに直行しました。雑誌で読んだ当時かなり気に入って、恐らくなかなか単行本にならないだろうと、切り取ってファイルに保管していたくらいですので、嬉しかったです。途中、絵柄ががらっと変わっていたりして、少なからず違和感ありましたけども、一冊通して楽しめました。秋重マンガは、とにかくカッコいいですね。僕なんかにとっては、親しみと憧れと、苦手意識のギリギリスレスレの位置だったりする(上條淳士とかになっちゃうとか完全にアウト)のですが、そこら辺のさじ加減が絶妙で素敵です。「音楽マンガとしてどうか」と聞かれると、なんと答えたものやら、ですけど。 僕は実際の音楽も音楽マンガも好きですが、一方で野球マンガやレースマンガや格闘マンガを、実際の野球ファンやレースファンや格闘ファンが言及するのを聞くのは、ちょっと苦手です。テクニカルタームを用いた批評や、リアルだとかリアルじゃないとかっていう感想が出るのも、仕方ないことではあるし、ある意味でそれも愛だとも思うのですが、これがたとえば恋愛マンガだったときに、「リアルな恋愛」とか堂々と言ってしまったときのちょっとした失笑感みたいなもの、前述の例にも感じてしまうのです。作者がそれを描きたかったのなら、それでいいではありませんか。大事なのは面白いかつまらないかだけです。 この『愛と青春の成り立ち』は同じく秋重×川崎タッグの『ニナライカ』と通じているみたいです。というか、堂々とニナが登場(得物はライカじゃなかったけど)してしまうわけですが。どこにでもいる(かもしれない)ような高校生の、一方は少年の、もう一方は少女の青春。自分の日常に溶け込みつつもそこからはみ出していこうとするモノとの付き合い方を見つけていくプロット等、なるほど共通項も多いなと得心。でも、キャラクタは『ニナライカ』の方が好きかなー。 『ニナライカ』はハッキリいってマイナなマンガですが、タイトルで検索すると「ニナライカってニライカナイだと思ってた」という意見がいくつか見つかります。そして、最近新聞でDVD発売の記事を見つけたのですが、『ニライカナイからの手紙』という映画。詳しいストーリィは分かりませんが、主人公の少女が父の形見のカメラで写真を撮るらしい。『ニナライカ』のニナは、おじいちゃんの形見のライカで写真を撮るのです。これって偶然?……んなわけはない、と思っているのですが、はたして。 |
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