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BSマンガ夜話を観ました。
今回の最終日のテーマは『のだめ』です。アナウンスがあってからとても楽しみにしていたのですが、実際の番組のほうは……うーん、ちょっと物足りなかったかな。期待値が大きすぎたともいえますが、司会者やレギュラ陣が、この作品に対してはそんなには熱い想いを持ってはいないのかなーという印象。いまひとつ盛り上がりに欠けるというか、もう少しつっこんだ議論があったらよかったですね。 そんな中でも、レギュラ陣の中ではおそらく一番思い入れを持っているであろう夏目さんの話は、やっぱり面白かったです。千秋とのだめの関係の面白さなんかも、改めて説明されると「なるほどなぁ」と。女性陣の千秋にきゅんきゅんきてしまうという話や、ゲストの夢枕獏さんがやられてしまった台詞についてしみじみと語るところなどもよかったです。大切なのはやっぱり愛デスよ、うん。 それと、何度か持ち上がった「二ノ宮知子は絵が下手」論ですが、それもどうかなぁと思いました。 最新単行本19巻も、最近読みました。 今回もまたとても面白かったです。千秋とのだめ二人の音楽的な成長物語からひとまず離れて、サブキャラクタのエピソード中心ですね。懐かしい顔も現れたりしてそれはそれで嬉しかったのですが、それだけになおさら「もうあの頃には戻れないんだよな」ということがまざまざと感じられて、一抹の物悲しさも漂います。そうそう、二ノ宮知子はある意味残酷にそういうところも容赦なく描くんだよなぁ。日本で音楽をやっていくのもやっぱり難しいようです。 登場してすぐに日本に帰っちゃった奈村里麻ちゃんもよかったです。こういう「いかにも」なキャラを描かせると二ノ宮知子は本当に上手いですね。どーしようもない娘だけど、可愛い。 彼女をきっかけにまた少し加速する、ターニャの黒木くんへの想い。そしてついに“一線”を越える……! そのシーン自体はトキメキとかムラムラとかは全然無い(いや、女性は感じるのかな)ものでしたが、その後の彼の反応が……あぁっ、もうっ、萌え死にさせる気か、黒木くん!! それと、ターニャのひっつめすごくラヴリィ。 ラストのユンロンには思わずホロリとさせられました。最後のページの「母さん ごめん」が、どっちの意味なのか――期待に応えられずに「ごめん」なのか、僕のわがままを許しての「ごめん」なのか、気になります。是非とも、このまま退散なんてしないでほしい。がんばれ、ユンロン! 次の巻がまた待ち遠しいです。
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小島幸子は、バンブレでもやっぱり弟を尻に敷く(正確には弟のDSを尻に敷く、だが)横暴な姉なのであった。
何の話って、『電脳コイル』のフミエと『バンブーブレード』の鞘子のことです。中の人だけじゃなくキャラクタも色々と共通点多そうな感じです。どちらも基本的にまじめで優しいんだけど、時々突っ走って周りをトホホな気分にさせるとか。どっちも愛着感じてますよ。他にも『バンブレ』はフミエ(鞘子)とイサコ(みやみや)の屈折した関係を楽しむという楽しみも楽しいです。我ながらオタク臭さ丸出し。 『コイル』はいよいよクライマックス、『バンブレ』も独特なノリに弾みがついてきましたね。このままどんどん突っ走ってほしいです。剣道と柔道で異種格闘技(?)戦とかやってまえ、もう。 しかし、小島幸子って地味な名前だなぁ。本名なんだろうなぁ。 『CLANNAD』も、HDDレコーダに録り溜めてたのを最近やっと消化しだしました。 やっぱり絵のクオリティは抜群だけど、最初のうちは「ちょっとこれは……ついて行けるかなぁ」という気になりました。キャラやストーリィのノリが、いかんせん自分の許容範囲の埒外にあって、大事なシーンのことごとくが「えー、それは……」とストレートに受け入れ難いというシンドさをまず感じちゃいまして。 でも、これを受け入れられないとこの先やっていけないんじゃないか、って、自分で言っててどこまで本気か定かじゃない予感から諦めずに観ています。春原君が出てくるシーンを楽しみにしながら。だんだんとシンドさも緩和してきました。要するに慣れってことじゃないのか。 でもね、シンドイ想いをしながら観てるうちに、ふと「リアルって、リアリティって、いったい何だろう……」という気持ちが浮かんだのです。それに「あなたのリアルと私のリアルは、ケンカしなきゃいけないものなんでしょーか」(なんとなく中原ボイスで)という行き場のない問いも。自分のリアルを自覚することを、すなわち思想と呼ぶんだろう、と今はそんなことを考えています。 『CLANNAD』に関しては、とある批評家さんがこれを「援助交際肯定文学」だと批判したことで、一部で話題になっているようです。話題の中心にいるのは東浩紀さん(批判した側ではなく、された側)。本人のブログにもそのことが少し言及されてます。 僕はその実際のやりとりを全然知らないのですが、「援助交際肯定文学」という文句がまず気になるじゃないですか。アニメをちょっと見た限り、いかにも鍵節炸裂って感じの泣き系ギャルゲの急先鋒と援助交際、およそ結びつき難いです。いったいどういう意味だろう? と興味が湧きましたが、アニメを見ておそらくこういうことじゃないかなと思ったのは、 「不幸な子、困った子、残念な子、可哀想な子を助けてあげるため」っていうのが、主人公がヒロインと関係する上での当初の動機、あるいはエクスキューズになっている、そういう点についてじゃないかな、と。 東さんのブログでも渚と風子を特に取り上げているあたり、そう思いました。 その指摘は援助交際の実際ともかなりかけ離れているんじゃないかって気もするけど、たとえ筋違いな批判にしても『Kanon』にしろ『Air』にしろ(どっちもシナリオの途中までしかプレイしてませんが)、Keyの作品はことごとくそういうのばっかりっていうのは、確かにあるかもしれないなとは思いました。それはむしろ主人公の無力感を強調するために用意されたシナリオなんでしょうけども。 でも、「男ならもっと単純に女の子を好きになったれよ」と思わず言いたくなってしまう気持ちも分かる(笑)。至極素朴な感想とはいえます。 っていうのはあくまで僕が感じたことで、実際は全然違う話なのかもしれませんけどね。 少し前に目覚まし時計が壊れて(おそらく止める時に床に落とした)そのままになっていたので、新しいのを買いました。アマゾンで適当にチョイス。割といかめしいデザインだけど、音は思ったほど激しくないです。 目覚まし時計の上にハルヒを乗せるのがとても難しかったです。 絶妙なバランスが要求されます。 少なくとも、もみじ饅頭より難しいのは確か。 届いてから3日くらいですが、毎朝なぜか鳴る前に目が覚めています。 はたして、この緊張感をいつまで維持できるか。 |
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「スズキ CM 指揮者 頼朝社長」
というキーワードで検索して当ブログにやって来られた方がいました。 なにぃー!? と思って僕も検索してみました。スズキのCMの指揮者さんを頼朝社長だと思ったのは僕だけじゃなかった、というか、かなりの数いる模様。いやー、やっぱりそうだよね! 似てるよね! ともあれ、みんなアレを頼朝社長とみてしまったのは、西本さんと顔が似てるってことはもちろんだけど、クルマのCMっていうある程度のステイタスの要るポジションで、かつヨーロッパの荘厳なホールで華麗に指揮を振っているのが頼朝社長でも違和感ないとみんな思っちゃったってことですよ、ね? 頼朝社長ってやっぱすごい! (前回からの続き) セカイ系とは、ご存知の通り<きみとぼく>という極私的な自分を取り巻く狭い範囲の人間関係の間に起こることと、全人類が生きるこの<世界>のあり方・<宇宙>の存亡というものが、<社会>や<国家>という現実的な手段をすっ飛ばして直接繋がってしまうという想像力のもとに描かれる物語系のことです。SFなんかと雰囲気や手触りが似てる部分もあるかと思いますが、<きみとぼく>と<世界>が繋がる手段をどう扱うか(もしくはそれを放棄するか)で両者は区別できると思います。 と、こんなことを言いながら、セカイ系と呼ばれる作品で僕が読んだ・観たものって実際『サイカノ』と『エヴァ』くらいのものです。どちらの作品も、その当時はセカイ系なんて言葉もなかったと思います。この言葉が遣われだしてから、ライトノベル周辺がセカイ系を擁する主な分野となってからは、何となくそっちの方を避けてしまってた感があります。「セカイ系」っていう字面や音がイヤだったのか、その世界観を肯定したくなかったのか……おそらくどっちもあったかと思いますが……流行り始めの当時から、これを批判する意見はあちこちであがってたようですが、まぁ僕の感想もその典型だったんだと思います。あまりにオタクにとって都合のいいセカイに見えて、これはどうだろう、と。それが「こういう発想も面白いかもしれない」と思い始めたのは、アニメで『ハルヒ』を観たあたりでしょうか(原作の方は読んでません)。西尾維新の一連の作品郡なんかも、今ではセカイ系に括られる場合もあるようですね。 「セカイ系」作品を読むときに感情移入のキィとなるのは、爆笑問題の番組の中で斎藤先生が説明してくれたように「強大な万能感と矮小な無力感」ということに尽きます。どれだけ価値観が変わろうと、意味が解体されようと、現実にはますます<私>はただひたすらにちっぽけで、<世界>にとってはいてもいなくてもどっちでもいい、そういう無力な存在に過ぎない。そんな無力な<私>が万能(全能といった方が分かりやすいかな)を欲したとき、この<世界>と対等な存在であろうと願ったとき、それを実現するには<世界>はイビツな形へと変態せざるを得ない。そんなふうに歪んだ<世界>がつまり<セカイ>なのです。その<セカイ>はことごとく<私>の全能性を保障してくれる。そのためだけに存在する<セカイ>なわけですから。 翻って、<世界>のあり方はこの現実のままに、それでも全能を欲したのなら、どうなるか。本来1:1で釣り合うはずのない<世界>と<私>を繋げようとしたときに、その無理な縫合によって発生する歪みを<世界>ではなく<私>の側に科した状態というのが、つまり「ヤンデレ」と呼ばれる人格なんじゃないでしょうか。僕には「セカイ系」と「ヤンデレ」が鏡映しのように思えます。「ヤンデレ」を「精神病理としてのセカイ系」と言い換えてしまってもいいかもしれません。 こんな大げさの言い方をせずとも、たとえば恋をすれば「私にとってあなたが世界のすべて」と思うことはあるでしょうし、ちょっとした挫折を「この世の終わり」と短絡して絶望してしまうこともままあります。ヤンデレとはそれを究極的に突き詰めてしまった状態=本当に「私の精神がすべてのセカイ」を私の中に構築してしまった、そういう状態です。その<セカイ>は<私>にとって全能感を満たすための<セカイ>なので、往々にして現実の<世界>とは折り合いが付けられない。それが、他人=<セカイ>の外にいる人からしたら、病んでいるように見える。そして、僕たちオタクがそんなヤンデレキャラにどうしようもなく惹かれてしまうその理由は、「病み」という歪みを自ら背負い込んでもなお<私>の<セカイ>を死守するというその振る舞い・覚悟に憧れる(または恐れる)からではないかと思うのです。 オタクを初めとする社会的に未成熟なオトナとは、フロイト先生の言によればつまり、思春期が終わっていない=精神の去勢に失敗した=全能感とちゃんとサヨナラ出来なかった人種です。心の隅に全能感をくすぶらせたまま、でもそれを昇華させることも消し去ることも出来ずに、ただただ日々膨らむ無力感に憂鬱になりながらも毎日何らかの気晴らしでお茶を濁して生きてるヒトビトです(一時期のミスチルの詞のようだ)。 そんなオタクから見ると、ヤンデレは憧憬と畏怖がない交ぜになった複雑な存在で目が離せなくなるんじゃないでしょうか。 全能感を捨てきれないとはいっても、それを持ち続けることの不可能性もまた嫌というほど思い知っている。どうしたって、結局は社会というものを意識せざるを得ない。もう子供ではないわけだから。だから、フィクション(とは限らないか)の中で、健常(社会性)を捨ててまでも全能足ろうとするキャラを見て、どこか溜飲の下がる思いを抱くのだと思います。あるいは、全能足ろうとすることのリスクを改めて確認する意味もあるかもしれない。たしか大槻ケンヂだったか、酒鬼薔薇事件の少年に対して「あいつは俺の代わりにやった」という感想を抱いたとかってことがあったと思いますが、その感性とも似てるような。 そういう意味でも、完全な空想の<セカイ>に遊ぶ「セカイ系」よりも「ヤンデレ」にはそこをひとつ飛び越える成熟のための可能性みたいなものを感じたりもするのです。いや、もとより「ヤンデレ」は「セカイ系」の範疇に収めるべきものだったかもしれないですね。僕は以前「セカイ系」がいまいち好きになれなかったためにどうしてもこれと対比させたくなるんですけど(^^; 『エヴァ』や『ハルヒ』なんかはそういう「セカイ系」であり「ヤンデレ」作品でもある、ともいえるでしょう。むしろ最近の「セカイ系」といえばそういうものを指すのかもしれません。セカイも成熟している、ということでしょうか……。 思うに、<私>と<世界>の関係というものは、それこそギリシャ哲学の時代から繰り返し語られてきたテーマですよね。 そのポジティブな面だけ捉えれば「私が変われば世界も変わる」といったポップソングの歌詞にあるようなカジュアルなメッセージにもなりますし、そこからニューエイジ思想や仏教の悟りなんかも繋がるでしょう。人間という巨大なヤンデレがその病みをどんどん強くするあまり、ついには現実の世界をも変質させてしまった……現在の環境問題をそんなふうに理解することも出来るでしょうか。それに対抗して新たに発生したエコロジィブームにも、また往々にしてヤンデレ的な振る舞いが見られる(様々な保護活動や反対運動等)っていうのも、なんというか、非常に示唆的だなぁと思います。 |
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明日に続くといったけど、別の話題を挟む。
今日(日曜)の朝日新聞で、来年度から色んな大学の学部や院で漫画やアニメに関する専攻ができるという記事を読みました。ひとつに学問として研究を深めること、ひとつにクリエイターの養成。前者はともかく、後者は大学がすべきこと、または出来ること、なんでしょうか……? いずれにせよ、僕なんかからしたらやっぱりどうしても気になってしまうトピックではあります。 日本の文化は、外国からの評価が先行していて国内での評価が著しく低いという問題は江戸の浮世絵のころからの伝統ですけど、そういう部分を是正せなあかんということは確かにあると思います。実際に研究に勤しんでおられる方々の情熱には頭が下がるし、そういう人たちの仕事を見たりするのも大好きです。新しい発見があったり、刺激にもなる。 知財立国とかコンテンツ振興とかがいわれるようになって久しいですが、国家政策として今まで十分にされてこなかった作品の評価を進めるべしといったとき、気になるのは、その評価とは誰が何のためにするのか? ということです。早い話が「良い漫画」と「悪い漫画」を国が決めるのか? ということ。そんなことされたらたまったもんじゃないです。 僕が漫画やアニメにおいて国や政府に対して求めることは、ただひとつ。支援も邪魔もしてくれるな。「手出し無用」ということに尽きます。だって、サブカルなんだしさ……。いや、そういう態度が問題を悪化させたという面もあるのかもしれないけど。 でも、少年漫画だって少女漫画だって萌え系漫画だってエロ漫画だって全部等しく漫画ですよ。読んで字のごとく「スズロの画」です。そこまでの許容力がお上にあるとは、ちょっと思えないし……。 美術や文芸や音楽といった芸術分野の諸先輩方と幾分事情が異なるのは、漫画やアニメやゲームといったものが、ただでさえ青少年の育成にとっての問題、社会の害悪という目で見られやすいということがあります。そういう視線は緩和されるどころか最近ますます厳しくなっているんじゃないかって印象がある。児ポ法やメディア規制三法の問題だって、決してなくなったわけじゃない。著作権法のことも合わせて、どうも国はコンテンツの管理強化を目論んでるんじゃないか、そういうキナ臭さはここんとこずっとありますね。 当初の話とちょっとずれましたが、そういう愚に陥らないためにも、研究というものは必要なものなのかもしれません。大学・在野問わず先生方の今後の仕事に期待します。 とあるブログで『惑星のさみだれ』の4巻が出ていたことを知る。 えー、なんだよー、前の巻もアマゾンで買ってるのにー。アマゾンのレコメンドもあんまり当てにならないなぁ。 あれ、表紙が白道さんだ。さみさま降板?(と思ったら後ろにおった)
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スズキのSX4のCMで、『新世界』を振っている指揮者さん、最初見たとき新宿歌舞伎町のホストクラブRyuguJoの頼朝社長(サンジャポファミリィ)かと思いました。だって、目ヂカラが……
本当は、西本智美さんという女性指揮者です。えっ、女の人か!(汗) wikiのプロフィールによれば、ゲルギエフの妹弟子だそう。その容姿から、しばしば宝塚系に見られてしまう。むべなるかな。高所恐怖症で、実は飛行機がキライ。千秋! 女千秋だ!! わぁ、俄然興味湧きました(笑)。クラシック音楽は好きだけど、その世界はぜんぜん知らないことだらけです。好きな曲でも、オケや指揮者ごとで聴き比べをするほどじゃないし。だから、CDを買うときはどの盤を買ったらいいかホント迷う。ラフマのピアノコンチェルト2番は、アシュケナージとリヒテルの2枚を聴きました。僕は、アシュケナージの方が好きです。指揮者コンクールなんかも実際に見てみたいなぁ。 約3週間遅れですが、『爆笑問題のニッポンの教養』の、斎藤環さんの回。やっぱり面白かったです。前半、エヴァや藤村の話くらいまでは楽しみながら気楽に見れてたんだけど(太田のエヴァ解釈は面白くはあったけどやっぱりちょっと違う気がしましたね。やっぱり彼はオタクの精神構造とかより歴史や社会に興味のある人なんだなぁと思いました)、後半だんだんと我が身を振り返って気が重くなってゆく……。 自己愛の成長かぁ……できてねぇなぁ(_ _; 今回の番組のメインテーマはもちろん、いわずと知れたひきこもりとセカイ系。内容に関しては、すでに一般論と呼べるようなことですが、番組を見ていてちょっと前に考えてたことを思い出しました。 「ツンデレ」はもうオタクの巷間を越えて市民権を得た感がありますが、ここから派生した様々な「〜デレ」のなかのひとつに「ヤンデレ」という言葉があります。 主に物語のヒロイン格にあたる少女が、主人公の少年のことを恋するあまり、またはそれをきっかけに悲惨な目にあったりすることで、精神に異常を来たしてしまうというキャラ・シナリオの類型を指す言葉です。僕はこの言葉を知って、「また上手いこと言ったもんだなぁ」と思うのと同時に、そういうキャラに対して強烈に惹かれるものを自分のなかに見出します。 この手のキャラは、何も今に始まったものではなく、昔からそれこそ文学なんかの中ではしょっちゅう登場してきたものと思います。しかし、文学の中のそれは「悲劇を象徴するためのキャラクターとしての役割」を負っているものがほとんどで、それを読んで感動するのはあくまで物語に対してであり、「病んでいるキャラ」そのものに萌えるという現象は、キャラ表現が先鋭化してきた現在だから現れたものだと思います。そういう意味でも「悲劇のヒロイン」と「ヤンデレ」とはその定義をまったく異にします。 僕は、「ヤンデレ」というキャラ類型に対する興味も去ることながら、自分や多くのオタクがこぞって「ヤンデレ」に参っている(データはありませんが、「ツンデレ」から派生したいくつもの「〜デレ」の中でも「ヤンデレ」が一番の消費量を誇るといっていいと思います)ということがまず不思議に思えました。なぜこんなにも惹かれるのか? 壊れるくらいに愛されたいっていう、主人公の少年への羨望? うーん、それは何か違う気がします。ひとつに、ヤンデレヒロインが登場するシナリオは、必然的にホラーや悲惨な展開を呈し、たいていの場合主人公の望むような幸せな結末は訪れません。 そんなわけで、抑えがたいヤンデレへの興味と分析欲からまず当たってみたのが『未来日記』でした。 未来を知ることができる日記を巡って12人のキャラクターが繰り広げる殺戮ゲーム。突然そんなゲームに巻き込まれたヘタレな主人公・天野雪輝(ユッキー)。ユッキーのクラスメイトで同じく未来日記所有者の我妻由乃は、美少女で優等生で学校のアイドル的存在なのに、なぜかユッキーのことが大好き。彼を守るためだったらあらゆる違法で残忍な手段も厭わない。ストーカー行為、破壊活動、殺人。クラスメイトを全員見殺すのなんてわけないし、敵地の真ん中でマサカリかついで派手な殺陣までこなしちゃう。そしてなぜか、家にはミイラ化した死体が転がってたりして……。そんな破天荒なふるまいと時折見せるイッちゃってる表情で人気爆発中のヤンデレちゃんです。うん、申し分ない感じですね。ここから存分にヤンデレを探求しようと思って読み進めたのですが、途中からだんだん思い始めたのは、 「これって……いわゆるセカイ系というやつなのでは?」 (長くなってきたので明日に続きます)
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ただいま、極細ポッキーを食べています。
うん、面白い。ただ細いってだけで実際食べても特にナニがどーだってこともないんだけど、これは面白いです。細いプレッツェルを作るための製造技術上のブレイクスルーがあったのかどうかとか、そーゆーことは知りませんが、何はさておき、その発想が面白いです。グリコでこの企画出したひと、アンタすごい! スパゲッティでも食べてるときに思いついたのかな? 伊藤剛さんがNTT出版のウェブで連載されている漫画コラムがアップされました。今回は『もっけ』です。→こちら お! 嬉しいなぁ。漫画やアニメの評論は、作品を知らなくても読んで面白いことも多いんですが、やっぱり好きな作品が取り上げられる嬉しさはまた格別ですね。『もっけ』はアニメも始まりましたしね。残念ながら僕の住んでる街では試聴することが出来ません。 さて、その書評ですが、内容はリンク先を読んでもらうとして(ぜひお読みください)、う〜ん、やっぱり伊藤さんの文章はヨイです。そのルックスも、性格も。ご自身もブログにて自分の文体について語られていますが、たしかに特異な個性があったり平易で親しみやすかったりっていう文体ではないけど、その分とても丁寧な態度で読みやすいのです。それはひとつに氏の誠実さだと思います。ちょっと生真面目なところもときに愛らしく(なんて言っては失礼ですが)。なんか、自分で書いててだんだん恥ずかしくなってきましたけど; 漫画の「背景」を見ることの感情移入という指摘も面白かった(僕も3巻で「養老天命反転地」が出てきたから作品の舞台は岐阜の方かと思ってました。もしくは作者の生まれがそっちなのかなとか)ですが、それ以上に「メタファーとしての物の怪」の部分が興味深かったです。それは何よりこの『もっけ』という作品のキモでもある。 では、もう一方の物の怪たちの存在感はどうなのか。(中略)それは、心と身体の境界に存在する、「心身症」という言葉がはからずも表しているような、通常は意識することのできない「病の種」とでもいうべきもののようですらある。ぼくがこの作品に、ぞくりとするような怖さを憶えるのは、こうした想像による。 という指摘は特に印象的でした。僕自身、最近まさしく同じようなことを考えたことがあったので。 以前、体調的・精神的に不調が続いたり、色んなことがなかなか思うようにいかなかったり、「なんで自分はこんななんだろう」とマイナス思考のスパイラルにはまり込んでいたときがありました。僕自身が状況の改善を望んでも、どんどん悪い方悪い方に引っ張られていくような感じ。そんなときに『もっけ』を読むと、ひょっとしたら……僕にも何かよくない“モノ”が憑いてるんじゃなかろうか……と、真剣にそんなことを心配した訳ではないんですが、例えばの話としてそういう想像をしたことが、1度ならずあります。実際、1巻の「オクリイヌ」の話などは、フィクションを超えたリアリティを感じたものです。 「物事には必ず理由がある」という決まり事に従うという点では、科学も宗教も同じです。もし理由がない何かがあったとしても、人がそれを受け入れるための理由というものは必ず存在する。人は、理由がなくてはそれを認識することも考えることも対処することも出来ないからです。古代の人々が自然現象や疫病を神や精霊、悪魔や悪霊の仕業と考えたことも、当時の観測においてはまったく正しいことだったわけです。ただの迷信が何らかの実効性を有していたっていう場合も多い。今は子供から大人まで誰もが科学的知識を有する時代ですが、はたしてどれだけの人がその知識を「生きるための力」として有効に活用できているか。科学には、人の悲しみを癒すことも、自殺したい人間を死から遠ざけることも出来ない。 静流と瑞生のおじいちゃんが、姉妹が小さいときから繰り返し教えてきたように「自分でしっかりと見、考えて、対処しろ」ということなんだろうと思います。宗教の時代でも科学の時代でも、生きてゆくことは同じように、とてもとても難しい。 最近、自分の漫画を描いていく上での作品に対する自信の変動の推移というものがだんだん分かってきました。グラフにすると、だいたいこんな感じです。 ![]() 当初頭に思い描いてたような素晴らしいものと実際形になったものとのギャップに、落ち込んだり凹んだりしたときでも「いつものことじゃん」というのが分かっていれば、そこから起き上がるのも少し楽になったりもする。それもひとつの「対処」ですよね(笑。 |
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前回のエントリィの、Lightbox.jsのスライドショー機能で4コマを1コマずつ見せるっていうのは、我ながらナイスアイディ〜アと思ったのですが、いかがでしょう。ただ、この場合[NEXT]と[PREV]の位置が逆だったらなお良いですね。ちょっとスクリプトをいじれば簡単に実現できそうですが、これだけのためにわざわざそれをするのも、というところですし。でも、こんなふうにスライドショーで読むことができる漫画といったら、4コマ漫画くらいでしょう。
この頃、ってもう結構前からでしょうけど、紙面でなくディスプレイで漫画を読むってことも増えてきたようです。コミックシードなんかは、雑誌(?)を毎月タダで読ませてくれて収益は単行本の売り上げだけっていう、その仕組みが成り立つってことを示しただけでもすごいと思います。最初に立ち上げたぺんぎん書房は破産宣告を受けて雑誌は一度廃刊にはなっていますが、後に双葉社が引き継いで現在に至ります。コミックシードという事業自体は黒字だったようです。→(ソース) こういう、パソコンのようなある程度の面積を持ったディスプレイならばまだ許容できます。紙面には遠く及ばないにしろ、とりあえす「漫画を読む」ことはできますから。 でも、ケータイコミック、あれだけはどうしても許せません。携帯電話を買ったとき端末にプリインストールされているオマケ版くらいしか実際に見たことはありませんが、なんですかアレは。スクロールしたり拡大縮小したり、見せるための工夫は感じられるけど、そんな工夫のことごとくが作品を台無しにしています。擬音や吹き出しをアニメさせたり、余計な効果音を付け足したりなんかは更に醜悪。そもそも、漫画は1コマずつ切り取っても何の意味もない。そんな風に読むことはできないのです。 思うに、名作文学のあらすじ集みたいなもんなのかもしれません。作品のあらすじだけ知れればいい、みたいな。それだったらウィキとかネタばれしてるページでものぞけばいいだろうって気もしますが。名作文学のあらすじ集にしてもケータイコミックにしても、実際の作品で得られるものの100分の1だって得られません。それだったら翻訳本とか移植作品とかを読んだり観たりするのはどーなんだっていう意見もあるかもですが(実際僕の中に浮かんだ)、それはまた違う話でしょう。 そういうケータイコミックのタイトルの中には、元はとても面白い作品も大ヒットした作品もあって、そんな偉大な先生方に対して僕なんかがこんなことを言うのはおこがましいんですけど、ああいうものに作品を提供する作家の気持ちはちょっと理解できない。出版社との権利関係とか止むを得ない理由があるとか、作家本人にも忸怩たる思いがあるとかだったらまだ救われるのですが……。 冒頭で、スライドショー形式で読める漫画は4コマ漫画くらいだと書きました。スライドショー形式、別の言い方を探すなら、紙芝居形式とでもなるでしょうか。もちろん4コマ漫画だって、紙面に縦に並んだコマをストンストンと視線を下に移して読んでいく方がずっと面白いしキモチいいのは確かですが、4コマはほかの漫画表現に比べて、より紙芝居的な側面が強いものだとはいえると思います。4コマの他には『ピーナッツ』のような欧米のクラシカルなカートゥーンもそうですね。フレームを固定してその中にリニアな時間経過を収めるという、原初的な構造の漫画です。映画なんかとも共通性が高い表現だろうと思います。原初的だからって古臭いとか劣っているとかって意味ではなくて、その仕組みをうまく活かしたり逆手に取ったりするから4コマ漫画は面白いのです。そんな俳句にも似た表現のソリッドさなどは、僕なんかからしたら軽い目眩すら覚えます。4コマを描く人はすごい。って、こんなことを言いながら、実際僕はそれほど熱心に4コマを読んできたわけではないんですが(ファンだといえるのは「あずまんが大王」くらい)、最近はアニメでも4コマ原作のものはホントに多いですね。 7月に出たちゃおの付録で『電脳コイル』の漫画版をお描きになったお友達の久世みずきさんですが、そのちゃおの付録漫画に描き下ろしを加えてコミックスにまとめたものを先日出されました。僕も今日アマゾンで注文しました。 コイルのアニメもそろそろ佳境って感じですね。毎回怒涛の展開で目が話せません。それにしても、設定は特殊だし、テクニカルタームは次々出てくるし、登場人物の相関関係は入り組んでるし、ハッキリいって難しいです。今の子どもは、これちゃんと理解してるのかなぁ。だとしたらちょっとすごい。 キャラクタはそれぞれにいろんなものを背負っていて、それぞれ魅力的なんですが、イサコやフミエやハラケンといった子たちに比べて、最初からずっと主人公のヤサコに今ひとつ親近感を覚えられずにいました。僕はもともとメガネっ子が苦手でして、そのせいかなぁと最初は思っていましたが、ここ最近の数話を見るうちに、そして22話にきてハッキリと気付きました。 「僕は、ヤサコが嫌いだ!」 なんていうか……何の苦労も負わず、何の葛藤もせず、何の犠牲も払わず、最後にはちゃっかりと一番オイシイところを持っていってしまうような感じが、実際にはそんなことないのかもしれないけど、なぜかそんな印象があって。「何の苦労も負わず」っていうのは、周りのイサコやフミエといった電脳エキスパートの大立ち回りがあるから余計そんな風に見えてしまうのかもしれません。「ちゃっかりと一番オイシイところを」っていうのは、イサコとのことにしても、ハラケンとのことにしても。ヤサコの初恋の人は<4423>、つまりイサコのお兄ちゃんで、その気持ちを小学校6年生の現在まで引きずっている。そして、おそらくそれをハラケンにダブらせてもいる。そのことを自覚しているのかどうなのか分からないけども、どっちにしても、そこらへんがなんか、イヤなんですよねぇ。お兄ちゃんやハラケンといった軸を挟んで、いずれにせよイサコとは対峙する関係にあるのに、それを匂わせもしないで。22話において、そんなイサコが周りの状況に追い詰められて感情を爆発させたのに対して、平然と(じゃないかもだけど)あくまで優等生的に接したとこ(お友達になりましょうときたもんだ!)も、とってもとっても気に食わない。アレはまるでイサコがヤサコに敗北したように見えました。複雑な気持ちになったイサコファンの人もいるんじゃないでしょうか。そう、今にして思えば、フミエとダイチの仲を微笑ましげに眺めてたのだって、なーんか上から目線というかその「一歩引き具合」が鼻につくというか! そう思うと、あの過剰にスカート振り乱す「女の子走り」までもー、坊主憎けりゃなんとやらで!! ただ単に僕がヒネくれているだけなのか、それとも製作者の側にそういう意図があるのかは分かりません。ですが、うーん、僕のヤサコに対する印象は、「嫌い」というより「気に食わない」、もっと言えば「怖い」、ですね。本心では何を考えてるのやらサッパリ分からないから。今後クライマックスに向けて、イサコが見せたような隠していた感情の爆発をヤサコも見せてくれたなら、その印象も変わるかもしれません。その最初の種は、昇降口でのイサコとのやり取りで蒔かれているだろうとも思えますが、はたして……。 今まで書いてきたことはあくまでアニメに対しての感想ですので、念のため。コミックスはまだ未読であります(重複)。
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